2017年7月のご挨拶

普遍化と専門化

目次

(0) 映画『オケ老人!』より
(1) 練習や勉強の苦しさと楽しさ
(2) 普遍化と専門化の流れ
(3) 普遍化のパターンと成長曲線
(4) 専門化のパターン
(5) 終わりにあたって

(0)映画『オケ老人!』より

「最近、2016年公開の映画『オケ老人!』(杏さん主演:小学館)をビデオで観た。
 公式サイト:http://oke-rojin.com/ (原作:「オケ老人!」荒木 源 著:小学館)
 高齢者ばかりのアマチュアオーケストラ『梅が岡交響楽団』(梅響)にうっかりと入団してしまった小山千鶴(杏)さんの挫折と奮闘を描いている。
 引っ越し早々の地の『梅が岡』で聞いた『梅が岡フィルハーモニー』(梅フィル)の演奏にすっかり感激し、うろ覚えで検索したのが『梅響』のHP。
 そこから、梅響の指揮者の野々村(笹野高史)さんに入団を申し込んでしまうあたりは、笑ってしまったのう」

「梅が岡(架空の地だけど)に梅響と梅フィルがあるとは、これは、また、紛らわしい!
 私も、インターネット通販で、似た名前の別商品を買ってしまったことがあるから、ありそうな設定であるわ。
 千鶴さんは、学生時代にやっていたバイオリンを弾きたかっただけなのに、成り行きで、結局、指揮者として、梅響を引っ張ることになってしまったのね。
 オケ老人という言葉から思わず『ぼけ老人』を連想してしまうけど、劇中の老人達は、身体面では、不安を抱えながらも、精神的にはタフ」

「おう、ともちゃんかい。ご苦労さんじゃ。
 梅雨(梅雨だけに梅響とは。たまたまじゃ)の最中で、蒸し暑い日が続くのう。 
 映画では、野々村さんが念願だった定期演奏会で、『好きなことやっている時が一番じゃ』と言うあたりに、それが現れている。
 千鶴さんも、
 『仕事とか恋とか思い通りにならないことばっかりじゃない。だからさ、大好きなことぐらい、思いっきりがんばりたいんだよね
 それを(梅響のメンバーに)教えてもらったと話している。
 そんなところから、今回は、いろいろな分野における『普遍化』と『専門化』について、考えてみようと思ったのじゃ」

「オーケストラのメンバーが楽器毎に分業化(専門化)されていることから思いついたのね。
 ちなみに、映画は、クラシックファンでない人や音楽ファンでない人も退屈させない工夫がされているわ」

「わしも、クラシックは、苦手でのう。眠くなってしまうのでな。
 映画中で何度も登場する『威風堂々』は、聞き覚えは、あったものの、作曲者が『エルガー(Edward Elgar)』(イギリスの作曲家。現代イギリス音楽復興者の一人。オラトリオ・交響曲・行進曲「威風堂々」など。(1857~1934)):広辞苑 第6版より、とは、知らなかった」

「というより、エルガーさんを知らなかったんでしょ」

「その通り。
 このお名前を初めて聞いたぐらいじゃから、とても、クラシックファンとは言えんじゃろう」

「梅響も梅フィルもアマチュアだけど、パート毎に分業(専門)化している点は、プロと同じ」

「そもそも、日本で、西洋の楽器が普及するのは、明治以降じゃから、最初は、西洋の楽器を知っている人自体がゼロに近かったじゃったろう。
 そこから主として学校教育を通じてだろうが、次第に世間に普及していった。
 戦後は、学校以外にも、民間のピアノ教室などを通して、子供だけでなく大人へも広がった。
 現代では、クラシック人気は、昔ほどではないが、団塊の世代を中心に楽器を、初めて、あるいは、何十年ぶりに手にしたという人たちもおるじゃろう。
 今後、普及率が増すかも知れん」

「本題に戻ると、オーケストラに限らないけど、アマチュアとして、目指すべきものは、技術と楽しさの両立なのよね」

「昔から言うじゃろう。『好きこそものの上手なれ』、好きになるためには、まずは、楽しくないとな。※1
 そこらをこの映画が教えてくれる。
 映画の『梅フィル』のように各パート毎に原則『降り番』があるシステムだと楽しさより苦しみが多くなってしまう。
 ここで『降り番』とは、演奏会に参加できないメンバーのことのようだ。
 これにより、互いに切磋琢磨は、できるかも知れないけれど、パート同士は、敵同時になってしまう。
 これでは、せっかく、好きだったことも嫌いになってしまう。
 音楽と書くくらいだからな ※2
 かといって、千鶴さんが入団した頃の梅響のように練習を軽視して、楽しさばかりを追求していては、本当の充実感は、得られない」

「たしかにそうね。
 『梅響』の練習後、恒例の飲み会で、最初の頃、野々村さん達が愚痴ばかりこぼす場面にそれが象徴されている気がする」

※1 好きこそものの上手なれ
 『何事でも、好きだとそれを熱心にやるから上達するものだ。』
 其角が『器用さとけいことすきと三つのうちすきこそものの上手なりけれ、と口ずさみせられけるが・・』(日本国語大辞典 精選版)

 一言付け加えると、順番的には、
 1. 対象の第1印象(見た目や音、手触り、香りなど)に好ましい、面白いなどの興味を持つ
 2. もっと対象を理解したくなる
 3. 対象を知ることにより、好きになったと脳が錯覚する
 4. 対象を本当に好きになる
 5. 対象をもっと理解するために練習、勉強する
 6. 上達する

 と段階を踏むと思われる。
 とこうやって書いてみると、これは、恋愛と似ている。
 もっとも、対象が人間の場合、第1印象がすべてではないことにも留意する必要は、ある。
 ところで、近年、テレビのバラエティ番組だけでなく、お堅い時事番組でも、いわゆるお笑いタレントが加わることが多い。
 彼らは、視聴者の脳内バリア(難しいものはいやだ→無意識にチャンネルを変える衝動に駆られる)を抑える役割を担っている。
 適当にぼけて、お笑いを取ることによって、視聴者に番組をじっくりと見てやろうかという気持ちにさせる。
 なので、今や、彼らの存在は、非常に大切なのだ。

 では、数十年前までは、なぜ、そうでなかったのか、という疑問が生まれる。
 私見になるが、現代では、脳が処理をする、特に目から入る情報量が爆発的に増加している。
 そのため、まず、(脳が無意識に)、第1印象で、ふるいにかけて、興味を持つ対象を絞り込み、取り込もうとしていると思われる。
 従って、文章ばかりの本やマニュアルが敬遠され、絵やイラスト、さらには、マンガ入りの本が歓迎される時代になった。
 まんがのキャラクターが好ましい印象を読者に与えられれば、少なくても、すぐに閉じられる心配はない。
 さらに、マンガでは、文章だけで書くよりも、内容を圧縮、簡潔にする必要がある。このことも読者の頭に入りやすい効果を生む。
 このようなことが、コミックを原作としたテレビドラマや映画が多く作られる背景にもなっているのではないか。
 このように考えると、これは、単なる表面的な変化ではなく、個人の心構えで変えられない。
 今は、それに合った教材、学習法、練習法が求められていると思われる。
 上の個所は、2017/7/4に追記しました。
※2 音楽
 日本では、現在のように『音楽』がいわゆる音楽の全般を意味するのは、文部省の訓令によって音楽取調掛が創設された明治10年(1877年)以降である。
 それ以前は、『音』は(人の)歌声、「楽」は楽器の発する音、を意味していた。
 (古代の)『音楽』は『楽』よりさらに狭義で、仏教の聖衆が謡い奏でる天上の楽、あるいは天上の楽を地上に模して荘厳しようとする法会の舞楽の意で用いられ、『音声楽(おんじょうがく)』が和文脈にみえるのに対して主に漢文脈にみえる。
 『今昔物語集』などの説話では天上の楽や法会の楽をいう『音楽』に対して世俗のそれを『管絃』といって区別している。(日本国語大辞典 精選版より)

「なるほどのう。
 『音楽』は、明治になって、作った訳語ではなかったのじゃな。
 楽とは、楽器の音のことじゃったのか。(だから、『楽』は、直接には、たのしい、という意味ではなかったな)
 そういえば、夢枕獏氏の『翁 OKINA』(角川書店:2011年12月初版)にこんな一節があった。
 この『翁』は、源氏物語に想を得た小説じゃ。
 源氏の君が奏した笛の音について、天一神(なかがみ)との問答の場面。
 『(天一神) 一つ問おう。
 (源氏) なんなりと。
 (天一神) 今しがた、そなたが奏でた楽の音は、今はどこにある。どこへ消えたのじゃ。
 (源氏) いいえ、消えてはおりませぬ。
 (天一神) なに!?
 (源氏) 帰ったのでございます。
 (天一神) 帰った? どこへじゃ。
 (源氏) 神のもとへ。どのような楽の音であれ、この現世で奏せられたすべての楽の音は、いずれもみな、神に帰ってゆくのでございます。・・』


「夢枕さんがその本の後書きの中で、源氏物語を最後まで読み通せなかったと述懐されているのが印象的ね」

「わしも、大昔、与謝野晶子訳(河出書房:1955年)で源氏物語をとにかく読んだことは読んだ記憶がある。
 当時は、なんとなく、大まかなストーリーというか、構造は、理解できたような気がしたが・・。
 その後、(親が)谷崎潤一郎の新々訳源氏物語(中央公論社:1964年)を購入したので、わしも読んでみた。
 文章が古風で、かつ、長すぎて、頭に入らない。結局、投げ出してしまったな」

「夢枕さんも、入門書を読んだりしたけど、肝心の本文の方が読めずに困っていた。
 そこで、お知り合いの勧めで、大和和紀さんの『あさきゆめみし』(講談社コミックス mimi)を知って、全巻を読み通すことができたそうね」

「コミックとは、意外な盲点というか、強力な助っ人じゃのう」

「教科書もいっそ、コミックにしてみたらどうかしら?
 そうすれば、最初っから、嫌いになる生徒が少なくなると思うわ」

「う~ん。
 さらに大きいテーマになってしまう気がするのう。
 近々、小学校で英語が始まるそうじゃが、そういったところから、コミック化を始めてみるといいかもしれん、という程度で勘弁してもらうとするか」 
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(1)練習や勉強の苦しさと楽しさ

「練習や勉強の苦しさと楽しさについては、わしは、こんな風に思うのだ。
 地道な練習や勉強を、むしろ、楽しいと感じられる人は、プロである。
 なので、プロは、収入を得ているかどうかではなく、(だいたい、収入を得る手段になり得ない分野も多いからな)、地道な修練を楽しめる意識があるかどうかだと思うのう。
 しかし、アマは、まずは、楽しさが第一であり、その上で、技量や知識の充実を図るのが望ましいじゃろう。
 むしろ、思い切って、楽しさを優先できるのが、アマの特権じゃろうて」

「たしかに。
 たとえば、今、学校のクラブ活動、いわゆる『部活』が問題となってるわね。
 一部の部活のハードさが、学生、教師の双方の負担となっている。
 これは、目標や指導方法がプロ志向だからと思うわ。
 プロレベルを目指すとなると、練習の分量に(基本的に)限界がなく、いきおい、楽しさを犠牲にしてしまうでしょ」

「そのとおりじゃのう。
 限界を決めるのは、時間しかないので、1週間休み無しに練習や試合に明け暮れることになりかねない。※
 そういういった部活を経て、一部の学生は、実業団やプロリーグの選手になっていることも事実としてある。
 しかし、その他の多くの学生は、プロになるわけではない。
 また、練習の苦しさについて行けずに途中で挫折して、その競技なり、分野が嫌いになってしまう生徒も少なくないじゃろう。
 これは、もったいないのう」

「つまり、部活は、目標をアマレベルとして、楽しさを主に、技量は、従でよいと思うわ。
 プロレベルを目指す人は、練習の苦しさを楽しさに変えていける人なんで、民間のクラブなりに入って、技量を磨くことにする。
 こうすれば、一般の生徒や教師の負担は、減って、学校生活が楽しくなると思うわ」

「もはや、なんでも、学校や教師が負担する時代では、なくなってきている。
 さらなる専門化(分業化)が求められる時代になってきたと思うのう。
 まあ、そういう方向に進めた場合、一時的に、オリンピック等の国際競技大会などの成績が不振に陥ることもあろう。
 しかし、それは、かまわないのではないか。
 もはや、オリンピックで国旗を掲揚することが至上命令となっていた時代は、(日本では)すでに終わった」

「サッカーなどの後発のスポーツでは、民間のスポーツクラブを経て、プロ選手になる人も多いでしょう」

※ 練習時間
 最近は、休息時間や休息日をとることで身体や脳の活動が、活性化されて、記録や成績がよくなるという研究も出ているようだ。
 やみくもに時間を費やすことだけが効率的なことではない。

 特に、学生では、部活以外の学業や生活も大事。その年齢でしかできないことを犠牲にするのは、問題ではなかろうか。
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(2)普遍化と専門化の流れ

「人々の知識や職業、企業の商品やサービスなど、ありとあらゆるものは、『普遍化』と『専門化』の両方向への進行が考えられる。
 今回は、多くは、語れないが、そんな現象を垣間見てみよう」

「(0)節では、オーケストラを例にしたけど、他には、どんなことかしら?」

「分かりやすい事柄を挙げれば、私たちの使っている日本語の読み書きじゃ。
 読み書きに使用する『漢字』は、3~4世紀に中国から日本に伝わったとされている。(日本国語大辞典)
 ひらがなやカタカナは、日本で工夫して漢字を基にして、同時代に作られたとされている。
 さて、当然ながら、伝来当初は、漢字の読み書きの能力を持つ人は、極めて少なかったじゃろう。
 しかし、時間の経過につれて、国民の間に浸透していった。
 その様子を模式的に下図のように表してみた。
 
 
 もちろん、現代でも、たとえば、大学の教育者や研究者などに専門家は、存在しているので、イメージとして、赤い丸で表してみた」

「なるほど、これが、普遍化ね。
 有用な技術や知識は、時間の経過につれて、一般に普遍化(普及)していくと言えるかしら」

「もちろん、社会環境(教育、経済、治安、宗教など)の影響は、大きいじゃろう。
 たとえば、日本ではないが、パキスタンの女子学生だった『マララ・ユスフザイ』さんが銃撃されたのは、記憶に新しい。
 彼の地では、女性が教育を受ける、あるいは、受けたいというだけで、命の危険にさらされることが(特に欧米の)世界に衝撃を与えた。
 日本でも、中世、女性が漢字(漢籍)を読むのは、恥ずかしいこととされていたらしいことが『枕草子』に出てくる。
 (こっそりと読むのは、よかったらしい。ひけらかすことがいけないことのようだったな)
 このように、普遍化は、必ずしも、一様に進行するばかりではない」

「でも、時代が進んでも、みんながピアノやバイオリンを弾けるようになるとは、考えにくいわね」

「そうだのう。
 普遍化は、ある程度で頭打ち(停滞)か、もしくは、減って(衰退して)いくじゃろう。
 もちろん、振動するように変化することもあろう。
 一方、専門化じゃが、これは、オーケストラのように、分業化していくことといってよい。
 たとえば、医学など、一般の学問分野は、時を経るごとに、個人の扱う分野が狭く、かつ、深くなり、すなわち、細分化されていく。
 そんな様子を下図で表してみた」

 
「たしかに。
 ま、専門化も極端になってしまうと、たこつぼ化してしまうと困るけどね」

「次節では、もう少し、丁寧に見ていくとしよう」 
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(3)普遍化のパターンと成長曲線

「普遍化の数量化=普及率の定義は、簡単じゃ。
 対象を会得している人の割合を普及率とすればよい」

「でも、どの程度の技量があれば、会得していると判断すればいいのかしら?」

「ま、それは、対象によって、あるいは、判断する目的によって、異なるじゃろう。
 たとえば、ピアノでは、バイエル(入門用の教材)を習ったなどじゃろう。
 日本語の読み書きなら、義務教育程度の能力などかな。
 もちろん判断基準を厳しくすれば、普及率が下がるが、ここでは、大まかな傾向を考えるので、対象にあった判断基準があると仮定しよう」

「なるほど。
 そうすると、横軸に時間、縦軸に普及率を取ると、折れ線グラフのように書けるということね。
 千変万化するわ」

「楽器や日本語の読み書きなどは、下図のような感じじゃろう。

 読み書きなどでは、例B、楽器などでは、例Aの感じじゃないかな」

「いわゆる成長曲線のように変化するという考えね」

「ちなみに、成長曲線というのは、普及率を時間の関数として、x(t) と書いたとき、
 x(t)が、dx/dt = a x (b -x)、のように変化すると仮定した場合の解じゃ。
 ここで、aは、正の定数、bは、1以下の正定数、とする。
 なお、t →+∞で、x → b、となるような解を考える」

「じゃ、DERIVE で解いてみるわ。
 変数分離形なので、簡単なんだけどね。
 LN(x)/b - LN(ABS(x - b))/b = a·t + c、cは、積分定数、ABS()は、絶対値を取る関数。
 この解は、
 (x = b·^(a·b·t + b·c)/(^(a·b·t + b·c) - 1) ∧ x ≥ b) ∨ (x = b·^(a·b·t + b·c)/(^(a·b·t + b·c) + 1) ∧ x ≤ b)、
 適切な解は、後者なので、
 x = b·^(a·b·t + b·c)/(^(a·b·t + b·c) + 1)、
 t →+∞で、x → b となることは、すぐに分かる。
 今、x=b/2 となるtをτ、また、a=bm、とおけば、
 x(t)=b /(1+exp(-m(t-τ)))、とまとめられる」

「これが『計算数学夜話』(森口繁一 著:日本評論社)に出てくる成長曲線を表す式じゃな。
 注意すべきは、t=0が出発点ではなくて、t=-∞ が出発点(x≒0)としていることじゃな」

「試しに、グラフを描いてみると、b=1、τ=0として、m=1、2、3、とすれば、
 

 のようになる」

「成長曲線では、最初、線形に増加する。
 その後、加速して成長し、増加率は、t=τ(このとき、x=b/2) で最大になる。
 そして、徐々に低下して、増加率は、ゼロに近づく様子をモデル化して方程式に表したものだな」

「でも、廃れていく技術や分野、競技などもあるわね。
 たとえば、ラテン語は、中世以降近代までのヨーロッパでは、多くの学生が学んだけど、今は、ほとんどいないでしょう。
 その地位は、英語に取って代わられている。
 日本でも古典芸能と呼ばれるものの一部は、やはり、こういう例だと思う。


 その場合は、上の例C のようにある程度普及した後に廃れていく」

「たしかにな。
 技術計算でも、コンピューターが発達する以前と現在では、大きく違っている。
 たとえば、対数計算は、コンピューター以前では、広く使われていて、その原理を基にした計算尺などが活躍した。
 以前(『積分(4)(高速ラプラス変換』)に書いたように、数表でも、常用対数表(底が10の対数)が冒頭に記載されていた。
 しかし、今は、普通の関数は、計算機内で計算できるので、数表に頼ることが少なくなった。
 対数計算や数表などは、衰退していった分野だな」 

「そうね。
 そろばんやお習字なども、日常生活で必須のものではなくなった。
 こういった分野は、学校教育から外していき、民間の塾などに任せていくべきでしょう。
 そうでないと、『プログラミング』、『英語』などの新しい分野を学校教育に追加していく時間がなくなってしまう」

「たしかにな。
 一方、日本舞踊、生け花、茶道等の伝統芸術などは、いわゆる『家元』制度により、上記のような衰退期をある程度軽減して、生き残ってきたと思われる。
 そのような制度がなくて歴史から消えていったものもある」
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(4)専門化のパターン

「専門化の程度は、定量的には、つかみにくい。
 ここでは、単純に一番小さな単位の合計としておこう。
 たとえば、オーケストラであれば、通常使用される楽器の種類の合計じゃ」

「なるほど。
 でも、学問の分野などでは、そもそも、最小単位が何か判定しにくいわね」

「たしかに、そうじゃがな。
 時間とともに、増えたり、場合によっては、まとめられたりして減ってしまうじゃろうしな。
 発展しつつある分野では、単位が増えていくスピードが速く、枯れてきている分野では、遅くなり、場合によっては、減っていくじゃろう」

「グラフで描くとこんな感じね。

 例D のグラフがなんらかの分野の発展期と最盛期、衰退期を表している」

「学問分野では、一般に普及する時期は、様々だと思われる。
 発展期、最盛期、停滞期、衰退期の少なくとも4パターンはあるじゃろう。
 アインシュタインが『一般相対性理論』を発表した1915年当時、理解できる人は、世界に何人もおらんと言われた。
 今では、大学の専門課程向けの専門書や一般向けの解説本でも取り上げられるようになっているから、当時よりは、増えている。
 (とはいうものの、一般相対性理論は、テンソル解析が必要だから、数学的な敷居は、高いがの)
 これは、新しい測定技術の発達により、ニュートン力学に基づく理論では、精度が不足するためじゃ。
 たとえば、GPS衛星による位置測定では、特殊相対論や一般相対論による補正が必要になっていると言う。
 また、観測技術の進歩で、ブラックホールや重力波までが観測される時代になってきたんじゃからな。
 さらには、コンピューターの登場も相まって、『天体力学』のような以前は、枯れたと思われた分野が再び活性化されることもある。
 下図の例Eのような感じかな」


「世間では、鉄道ファン、いわゆる鉄ちゃん、が増えているけど、そんな趣味の世界でも言えるかしら?」

「言えるんじゃないかな。
 最初は、ひとくくりにされていた分野が、車両、写真、録音、模型、コレクション、乗車、時刻表、駅舎、廃線などの小分野に分かれていく。
 もちろん、分け方は、様々なものがあるだろうがの」
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(5)終わりにあたって

 今回もご覧いただきありがとうございました。
   真夏並みに気温が上がる日もあるようになってきましたが、どうぞ、皆様、ご自愛くださいますようお願い申し上げます。
   2017年4月で、Windows VISTA に対するマイクロソフト社の延長サポートが終了しました。
   また、本年後半の10月には、Office 2007 に対するサポートも終了します。

   インターネットに接続してお使いの方は、セキュリティが厳しい状態になりますので、最新版等への乗り換えをご検討ください。
   では、次回も、本欄で元気にお会いできますことを願っています。
   ※旧ドメインは、2017/6/1で閉鎖いたしました。お気に入り、スタートページ等の変更をお願い申し上げます。
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 更新日 2017/7/3 一部追記 2017/7/4

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