会員の皆様へ(2011年5月のご挨拶)

我が家の地震対策(3)

目次

 ウンナンオウバイ(雲南黄梅)
 耐震診断
 耐震工事
 家具の固定の継続
 水や食料の備蓄
 無停電電源装置(UPS)の設置
 東日本大震災
 過去の地震に謙虚に学ぶこと(2011/5/6 青字部分追記)
 大震災以降の追加対策
 終わりにあたって
 元号のこと(2011/5/1 追記)

ウンナンオウバイ(雲南黄梅)

「ウンナンオウバイ」であります。4月頃に黄色の6弁~8弁ほどの花をつけます。
 下図の位置にあります。(別に図示するほどでもないか・・)

 一年中、青々としています。切っても、切っても、ツルのような枝が伸びて参ります。本当に丈夫な木です。
 ずいぶん以前に家の者が千葉県の知り合いからもらってきたものですが、その千葉の人も名前を知らなかったとのことで、「どうせ、大したものではあるまい」と今まで、一度も名前を調べてもらえなかったという、誠に気の毒な植物です。
 ところが、今年の2月、「ロウバイ(蝋梅)」の花が咲いた頃、とある少年(小学校4年生ぐらい)が、つかつかと、入ってきて、「これはなんという花ですか?」と聞くではありませんか。(下写真はロウバイの花)
 
 これは、「ロウバイというものだよ」と教えると、「オウバイですか?」と聞き返されました。
 なるほど、「黄梅」と言っても良いぐらいにロウバイの花は、黄色です。
 「いや、ろうそくの蝋に梅と書くんだよ。花が黄色だけどロウソクのように透けて見えるでしょ」と説明すると、納得して、帰りましたが、あとで、考えると今時の小学低学年の生徒には「ロウソク」という言葉は、通じたのかな?、ロウソクって「死語」になりかけているんじゃないかとも思いました。
 これがきっかけとなって、こっちの花が咲いた頃に、再び、かの少年が現れて、「これはなんという花ですか?」と質問されるかも知れない。
 分からないというのも口惜しい。まだ、現れていない(いまだに現れません・・。おーい、早く来い)少年を意識する必要もないのですが、気にはなりました。
 以前、この欄で取り上げた雑草の「コミカンソウ(小蜜柑草)」は、比較的簡単にWEBを検索すると見つかりました。今回は、それほど特徴がありません。「春 花 黄色」などと入力して、Googleで検索すると、どうも、似たような花の写真がありました。
 これは、オウバイというものらしい。そこで、「オウバイ」を頼りに再度、検索すると、常緑のものは、「ウンナンオウバイ」、落葉のものは「オウバイ」という、いずれもモクセイ科の植物であることが分かりました。
 ウンナンオウバイに比較すると、『オウバイ』のほうがハッキリとした6弁の花で「梅っぽい」(もっとも、梅は5弁で、オウバイの花は大きい)です。ウンナンオウバイは、それを、八重咲きにしたような、7~8枚ぐらいの花弁があります。遠目には、「ヤマブキ」の花の様にも見えます。でも、葉が全然違います。
 なお、オウバイは、モクセイ科ですが、キンモクセイのような香りは、まったく、ありません。
 でも、ちょっと、驚きましたな。偶然とは言え、「ロウバイ」の近くに「オウバイ」があるとは、これはまた紛らわしい。
 ウンナンとは、中国の「雲南省」、雲南省は、「ベトナム」や「ミャンマー」との国境の近くとなります。日本には、明治の頃に渡来したらしいとのことです。
 オウバイ、ウンナンオウバイとも、花は咲いても実はできず、挿し木や取り木で増やすとのこと。
 そういえば、八重のヤマブキも実がなりません。『ななえやえはなはさけどもやまぶきのみのひとつだになきぞかなしき』という有名な古歌もありましたな。
 今、調べると、後拾遺集という本に兼明親王(かねあきらしんのう)の歌として載っているそうです。本来は、『・・なきぞあやしき』となっているとのこと。大辞林でもそうなっています。
 へー。『かなしき』ではないんかい、と思ってWebで、更に調べますと、江戸時代に、『あやしき』は『かなしき』に変わって広く流布したとのこと。この場合の『あやしき』は、「不思議!」というような意味だそうです。太田道灌の故事により広く知られています。
(この辺は、『やまとうた 和歌』 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaneaki.html を参考にしました)
 まあ、いずれにしても、「大したもんですな」と感心しました。
 しかし、その後、注意して見ると、なんと、ご近所の庭にも似た株が咲いているのを発見!。
 しかも、それは、ウンナンとは付かない「オウバイ」とおぼしきものでした。下写真。携帯の写真とは、便利ですな。(今更ですが)
 「ウンナンオウバイ」。ビックリするほど、珍しいものではありませでしたが、どこにでもあるというものでもありませんでしたな。
 ちなみに、手元の園芸の参考書や植物図鑑には、載っていませんでした。

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耐震診断

2005年9月と10月に「我が家の地震対策(1)」、「同 (2)」と題して、本欄で、地震対策を取り上げました。そのときは、家の中の家具の固定やガラスの破損対策が中心でした。
 その後、2006年6月に所在地の区役所が耐震診断のすすめ(無料)という冊子を配布していたため、早速、申し込みました。
 我が家は、昭和56年(1981年)当時の木造一戸建2階(一部は1階)です。当時の建築基準法は、現在よりも地震への対策が甘いものだったようですので、心配でした。
 まずは、「簡易耐震診断」というものを受けました。これは、建築の専門家(耐震診断士)が家の外観を目視で判断するものです。
 地盤・基礎ならば、その内容(鉄筋コンクリート、無筋コンクリート、ひびわれのあるコンクリート、その他の基礎)と状態(良い、やや悪い、悪い)の3段階により1~0.1までの点数を付けます。
 なお、2階建ての場合は、1階部分で判断。同一項目に低いものが2つ以上あるときは、低い方で判断というものです。
 評価ポイントは、A 基礎、の外に、
 B 建物の形(整形、平面的に不整形、立体的に不整形)、C 壁の配置(つりあいのよい、外壁の一面に壁が1/5未満、外壁の一面に壁がない(全開口))、D 筋かい(筋かいあり、筋かい無し)、E 壁の数(多い、やや多い、普通、やや少ない、少ない)、F 老朽化(健全、老朽化している、腐ったり、シロアリに喰われている)の6個の項目で行われます。
 これらの6つの評点を掛け合わせて、総合評点を求めます。1項目でも低いと総合評点は、当然、小さくなります。
 我が家は、約0.9となり、1未満となりましたので、一般耐震診断の対象となり、約1ヶ月後に一般耐震診断を受けました。簡易耐震診断が外観を目視のみで検査するのに比して、図面を元に間取りや柱の構造、床のゆがみ、屋根、屋根裏などを実地に検分し、写真を撮ったりして調査するものです。これにより、我が家は、0.81点という点数になりました。0.7~1.0がやや危険という分類になります。ここまでは、無料でした。
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耐震工事

「やや危険」という判定が出たことにより、何らかの耐震工事を考えることになりました。
 耐震診断は、無料(区役所から費用が補助)でしたが、耐震工事は、若干の補助金を除くと自己負担となります。
 付け加えると、耐震工事を行った場合には、固定資産税の減免措置も受けることが可能です。また、工事内容次第ですが、地震保険料などが軽減される場合もあります。耐震工事の際には、保険会社の資料にも目を通しておくと良いでしょう。
 さて、耐震工事を行ったのは、2006年夏ですが、これより前、2003年1月に、我が家では屋根の「かわら」を昔ながらの「瓦」から鋼板製の薄くて軽い瓦に変えました。
 その瓦葺き替え等の工事でお世話になったW建設さんに耐震工事を打診したところ、同じ区内で耐震工事に長けているS建設さんをご紹介いただきました。
 そこで、あらためて、当時の建築図面や一般耐震診断時の写真などから、S建設さんが建物の強度計算を行うと、我が家は、耐震工事前で、評点 0.76が最も小さい数値(1階部分の南北方向の強度)でした。
 家の全面的な立て替えは、費用や一時引っ越しなどの手数がかかり、早急な実施は、困難なため、一部の改築を相談しました。
 1階の真ん中の部屋は、8畳間で、現在、教室として使っています。ここは、南側がガラスサッシであり、他の3面は、いずれも引き戸という4面とも、四方のどこからでも出入りできる部屋であり、ずいぶんと壁の量が少ない構造となっています。
 S建設さんの提案では、南側のガラス戸とと北側(廊下側)の引き戸は、そのままとして、他の2面(東と西)の引き戸を止めて耐力壁とすることになりました。こうすることで、家全体を揺れやねじれにそこそこ強くできるとのことでした。部屋へは、廊下側の引き戸から出入りできますので、特に不便はありません。
 実際の工事は、その部屋の2面の壁だけでなく、天井と床もすべて剥がして、壁の筋かいなども、やり直しました。また、筋かいの固定方法をこれまでの釘で止めるだけでなく、鋼鉄製の金具とボルトで留めるなどのさらなる補強も施しました。さらに壁も合板の厚いものでそれ自体強度の高いものにしました。
 これらの工事により、一番弱かった1階部分の評点が、0.76(倒壊する可能性が高い)から1.04(一応倒壊しない)になりました。
 この年は、昨年(2010年)の夏のように、とても暑い日が続きましたので、工事の方は、大変でした。
 S建設さんの皆様、本当にお疲れ様でした。
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家具の固定の継続

前節でご紹介した2006年夏の耐震工事の後も、少しずつ、家具などの壁や柱への固定を進めました。
 たとえば、テレビは、地デジ対応のため、2009年6月にブラウン管のテレビから液晶式のデジタルテレビに買い換えました。エコポイントがありましたね。
 液晶式テレビは、軽いので、ゲル状のパッドにより、テレビ台に柔軟に固定できます。なお、テレビ自身にも、固定用のベルトが付いていたので、テレビ台に背面でしっかりと固定できました。その上で、テレビ台自身を壁に固定用の金具とチェーンで固定しました。
 2階の本棚は、30年ぐらい前に、紀伊國屋書店で取り次いでいた、3重のスライド式の書棚で、結構重いものですが、天井や壁に完全に固定されているのではないので、不安がありました。そこで、突っ張り棒と金具で固定しました。
 また、電子レンジ、仏壇などもゲルパッドや金具で固定しました。下図は、電子レンジの例。写真では、見えませんが、電子レンジの下にもゲルパッドが!

本棚は、こんな感じです。(下写真)

 本棚の突っ張り棒は、左上奥(写真では隠れていますが)にもあります。
 左図は、金具で更に柱に固定してあるところ。
 なお、2011年3月11日の『東日本大震災』では、本棚の一番上にあった『大予言者の秘密』(高木彬光 著:光文社:昭和54年7月初版)のみが落下しました。
 カッパブックス中のこの『大予言者の秘密』は、後世、易聖と呼ばれた「高島嘉右衛門」の生涯について、ご自身も易に詳しかった推理小説家の高木彬光氏が書かれた伝記小説です。
 実は、高島嘉右衛門と地震とは、深い縁(安政江戸地震:1855年11月11日(旧暦の安政2年10月2日)により材木の取引で大変な財を築く)があり、この本のみが落下したことに、偶然とは言え、奇異の感に打たれました。
 安政江戸地震は、マグニチュード6.9の直下型地震で、江戸を中心に大きな被害をもたらしました。手元の2010年版の理科年表(丸善:1400円+税)によると、家屋1万4千余が壊滅又は焼失、死者4千とあります。前年の1854年12月23日(安政1年11月4日)には、駿河湾あたりを震源とする『安政東海地震』(M8.4)という巨大地震があり、翌日(同年12月24日(安政1年11月5日))には、『安政南海地震』(M 8.4)が発生しました。安政江戸地震」は、この地震に誘発された内陸型の地震(この部分、ウィキペディアによる)と考えらています。これらが世に言う「安政の3大地震」です。
 安政東海地震以降、東海地方には、大きな地震が無いため、現在、東海地震の可能性が高まっていると指摘されていますが、その際、安政年間に起きたように他の地域の大地震とセットで起きる可能性も指摘されています。
 なお、1923年(大正12年)9月1日の「関東地震」(関東大震災)は、直下型ではなく、規模は30倍ほど大きい地震(M 7.9、死者・行方不明者10万5千人余り。津波は、熱海で波高12mを記録)でした。この「関東地震」は、海溝型の巨大地震であり、大正の関東地震より220年前の「元禄地震」(地震番号 129番:1703年12月31日)M7.9~8.2と同じメカニズムに基づくものとも考えられ(この部分、ウィキペディアによる)ています。(青字部分は、2011/5/29に加筆訂正しました) 
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水や食料の備蓄

5年ほど前から、家具の固定と平行して、水と食料等の備えを行っていました。
 これは、地震対策だけではなく、新型インフルエンザ等の感染症の大流行(パンデミック)対策にも有効です。
 まあ、最近までは、まさか、放射能汚染への対策が必要となるとは、考えていませんでしたが・・。
 下図は、食料(アルファ米)、水(5年保存可能なもの)、安心救命食(キャンディー、グルコース、ゼリー)です。
 これ以外に、薬、マスク(通常用と医療用のもの)、チョコレート、飴、缶詰、カップ麺、インスタントご飯などなどを備蓄しています。
 缶詰、水などは、あまり古くなると、まずくなりますので、年に1回ぐらい見直して、古いものから消費するようにするとムダがありません。
 
 

 これらは、非常持ち出しバッグの他に納戸に置いた段ボール箱に収納しています。納戸は、北側の部屋ですので、直射日光に当たらず、また、比較的、高温にならずに保存に便利です。
 非常持ち出しバッグには、このほかに、下着やビニールカッパ、安全手袋(手のひら側が分厚いゴム引きで滑らない)、懐中電灯、電池、マッチ、ライター、防災用ラジオなどと現金なども若干ですが、入れてあります。非常持ち出しバッグは、靴(余っていたスポーツシューズ)とともに枕元に置きます。
 あ、消火器もあります。台所と教室、寝室に備えてあります。簡易型2本、普通の消火器2本です。耐用年数がありますので、耐用期間が過ぎたらば、速やかに新品を購入し、古い製品は、業者さんに引き取ってもらいましょう。特に底面等がさび付いてきているものは、非常に危険です。死亡事故も発生していますので、地震対策だけでなく、防災対策として、見直してみて下さい。
 3月11日以降しばらくの間、水や電池が近隣の店から無くなったときには、これらは、重宝しました。
 また、蓄えていた水の一部は、お孫さんが生まれた友人のお宅に差し上げて喜ばれましたが、水をあげて喜ばれることなど、今後、無いようにと願っていますが・・。
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無停電電源装置(UPS)の設置

ノートパソコンと異なり、デスクトップ型パソコンは、一般にバッテリーを自身では持っていないため、停電になると、当然ながら、停止してしまいます。編集途中のデータは、消えてしまいます(アプリケーション次第ですが、自動バックアップにより助かる可能性もあります)が、問題は、急に停電した場合、ハードディスクに損傷が起きる可能性があることです。
 そのため、以前に「LANLANパソコン」で紹介しましたように、サーバー機から順次、UPSを設置してきており、現在、5台のUPSがあります。すべて、アメリカのAPC社製のものです。
3月11日以降、注文が殺到したため、UPSは、品薄のようです。
左図のUPS(左方が新しい)は、パソコン本体、ディスプレイ、外付けHD、ハブなどへ、停電直後から、UPS内の鉛バッテリーにより、約10分~20分程度、電流を供給できます。パソコンとは、USBケーブルで接続して、付属のソフトにより、設定した時間(既定では5分間)、バッテリーによる電源の場合に自動的にOSをシャットダウンします。
また、通常時は、雷などのサージ電流への対処も可能です。
 念のため、申し上げておくとUPSでは、エアコンは、動かせません。(-_-)
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東日本大震災

2011年3月11日(金)午後2時45分頃に東北沖を震源とする巨大地震が起きました。
 マグニチュード、約9.0という、正確な記録が残っている地震では、世界でも有数の規模の地震でした。
 ちなみに、マグニチュードが1つ増えると、地震のエネルギーは、約30倍になります。
 地震が起きたとき、私は、ちょうど、生徒さんのひとりと教室にいました。
 ぐらぐらと揺れてきましたが、だんだん、大きく揺れるようになりました。まずは、生徒さんに机の下に隠れるように言ったのですが、私自身も、かなり、慌てていたせいもあり、台所に行って、家の者にテーブルの下に隠れるように言ったりしたことは、後で考えると危険だったかも知れません。台所の入り口にある冷蔵庫が手前に倒れてくるかも知れなかったからです。
 再び、教室の方にとって返しましたが、まだ、揺れが収まりません。それどころか、ますます大きくなってきました。
 これまでに少なくとも、30秒ほどは経過していたと思います。教室の南側のガラス戸をあけて、裸足で二、三歩外に出たのですが、隣家との境にあるブロック塀が倒れてくるかも知れないと思い、また、生徒さんからも危ないと言われて、また、部屋の中に戻り、二人で机の下に隠れようとした時にようやく、揺れが収まりました。
 ほんとうに長かったです。
 非常にゆっくりとした、0.5秒~1秒ぐらいの周期の揺れだったように思いました。私が経験したなかでは、もっとも、大きかったように感じます。
 ただ、幸い、教室のパソコンやディスプレイも机に固定していたため、倒れず、机(壁に固定)やいすなどの備品も大きくは、動きませんでした。
 東京のここでは、停電も起きませんでした。ただ、都市ガスは、ガスメーターのところにある地震感知装置が働き、供給が自動的にストップしました。夕方になってから、その装置の説明を読んで、解除しました。以前に雨だれが強くあたって、この装置が働いたとき以来、はじめて、地震で停止しました。これをみても、今回の地震の揺れが大きかったことが分かります。
 我が家には、エレベーターなどはないので、良かったのですが、マンションのエレベータや電車は、停まったため、帰宅困難者と併せて、都内も相当の混乱がありました。
 しかし、地震の直後にテレビを付けたときは、これほど大きな津波が起きていて、また、それにより1万人を超える死者、行方不明者が出るとは、さすがに思えなかった、というのが正直な感想です。
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過去の地震に謙虚に学ぶこと(2011/5/6 青字部分追記)

「理科年表(2010年版)」を見ていると、正直、めまいを感じます。すなわち、いかに日本には、地震が多いかと言うことを痛感させられるからです。
 最近の新聞紙上で取り上げられている「明治三陸沖地震」というのは、同書によれば、地震番号281番の「明治三陸沖地震津波」(1896/8/31:明治29年:M 8)というもののようです。地震そのものの被害はなく、津波が北海道から牡鹿半島までの沿岸を襲って、死者・行方不明者が青森:343、宮城:3452、岩手:18158人。家屋の損害1万以上、船の流出約7千、津波の高さは、吉浜:24.4m、綾里:38.2m、田老:14.6mとなっています。
 また、1933/3/3(昭和8年)にも、地震番号325番「昭和三陸沖地震」(M 8.1)があり、地震の直接被害は少なかったものの、三陸沿岸をおそった津波により、死・不明者 3064,家屋流失 4034、倒壊 1817、浸水 4018、波高は、綾里湾で28.7mと大きな被害が記されています。
 なお、私が知っているチリ津波は、同書の地震番号:なし、チリ沖の大地震による津波(1960/5/23:昭和35年)のものです。津波の波高は、三陸沖で5~6mでした。死者・行方不明者は、全国で142人、家屋の損害1500余りとあり、「明治三陸沖地震津波」や「昭和三陸沖地震の方がはるかに、波高も高く、人的、物的被害も大きかった事が分かります。
 では、なぜ、「チリ津波」が非常に印象的であったか、ということですが、やはり、24時間も経ってから、地球の反対側から突然、やってきた津波というものの恐ろしさが今、生きている人々の脳裏に残ったことがあるでしょう。明治の三陸沖地震津波を経験した人は、みな亡くなってしまっているからです。
 もう一つは、地震番号404「平成7年兵庫県南部地震」(「1995/1/17:M 7.3。いわゆる「阪神・淡路大震災」。死者 7千人)までは、チリ津波以降、大きな人的被害をもたらした地震が少なかったことがあるかも知れません。もちろん、大きな地震が無かったわけでは無いのですが、阪神淡路大震災までは、なぜか、比較的、大都市でない地域を選んで、大きな地震が起きた感があります。そのため、人的被害が少なかったのですが、それは、単に住んでいる人が、たまたま、少なかったに過ぎなかったのです。
 こうして、同書を見ているだけで、東京電力の福島原子力発電所の津波への備えは、決して十分ではなかった、という事が分かります。
 机上の空論ということばがありますが、机上でも、容易に分かってしまうことを、意識してか、無意識にしてかは別にして軽視しただけで、これほどの損害(幸い、現時点では人命被害には至りませんが)が発生したことを謙虚に認めなくてはなりません。そして、残念ながら、他の原子力発電所にも同様の問題点があり得ることも認める必要があります。
 あまりにも、海辺の低い場所に作りすぎてしまった感を免れません。いずれにしても、早急に電源等の高台への移転や多重化や電源喪失時のシミュレーションを各原発で行う必要があります。
 憶測ではありますが、福島の場合は、東電が自身が電力会社ゆえに、むしろ一般の会社よりも、停電という事態を軽視したこともあるかも知れません。電気を知りすぎていて、足をすくわれたという感じがします。
 明治三陸沖地震津波と並んで引用されるのが、地震番号20の「貞観地震」(869年7月13日:M8.3)ですが、そこまで遡らずとも、波高の高い地震は、三陸沖でなくても結構あります。
 ちなみに地震番号の1番は、日本書紀の416年8月23日に「地震」が起きたというと書かれているものです(被害は不明)。
 被害があった、という記載があるのは、599年の地震番号2番のものです。家屋が倒壊したということが書かれているそうです。(それまで180年間ものあいだ地震が無かったということではないでしょうが、当時は、都の近くに被害がなければ記録に載らなかっただけでしよう)
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大震災以降の追加対策

緊急地震速報機」を買いました。以前から、関心はあったのですが、購入までには、至りませんでした。
 この、3.11を機に余震などの地震が多くなり、やはり、備えるべきかと思い、ちょうど、テレビで宣伝していた「アイリスオーヤマ」の製品を選びました。
 緊急地震速報は、携帯にもメールで入りますが、家の者は、携帯を持っていないし、私もいつも肌身離さずに携帯を持ち歩いている訳ではありませんので、結局、同一製品を2台購入したことになります。価格は、高額なものではありません。ヨドバシカメラ価格で6980円でした。
 本製品は、FM放送を常時受信しています。初期設定は、本体背面にあるスイッチと音量調整ダイヤルを使います。
 たとえば、東京では、J-WAVE(81.3MHz)に合わせて、正しくラジオが聴けるかどうかをアンテナと併せて調整します。
 当地では、アンテナ線を果たす電線を適当においても、難なく受信できました。あとは、音量を上げておいて、セットボタンを押すだけです。音は、無音となります。いざというときに、音声が流れる仕掛けです。
 J-WAVEでは、到達予想震度が5強以上となる場合に放送が行われるそうです。
 現在までのところ、「ナマズ君」は、無音です。
 そうそう、パソコンで「ストラテジー株式会社」が緊急地震速報を受信して、画面にポップアップするソフトを無料で頒布しています。ただし、パソコンの電源が入っていないと当然利用できません。ただ、上述のFM放送で受信不可能な「高度利用者向け緊急地震速報」を受信できます。同社が販売している製品を使えば、受信と同時に何らかのアクションを取ることもできます。
 この「高度利用者向け地震速報」は、有料とはなりますが、ケーブルテレビ局やNTTのフレッツでも提供されています。
 上記以外の我が家の追加対策は、家具の固定を見直して、頼りない個所などを補強したり、戸棚やタンスの転倒防止措置を行ったりしました。 
 なお、計画停電は、中止となりました。ただ、今年の夏は、心配ですので、よしずを買い足したり、冷風機やLED電球を買ったりしましたな。
 ちなみに、LEDとは、Light Emitting Diodeの略です。日本語では、発光ダイオードとよばれます。
 さすがに自家発電機までは、手が回りませんね。
 また、太陽光発電は、調べるまでもなく当分は、品薄というか、設置に伴う工事が必要なので、無理でしょう。
 あとは、大容量の家庭用の蓄電装置(夜間に充電して昼間使う)が、もう少し、価格がこなれてきて、しかも、安全に使えるようになれば、発電機よりは、エコですし有力な購入候補かも知れません。
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終わりにあたって

今回もご覧いただき、ありがとうございました。
 前回の記事などと併せて、ご覧いただければ、ご家庭での地震対策にいくらかでもお役に立つのではないかと思い、第3回目の記事を掲載しました。
  未曾有(ではないのです!過去に学ぶ必要があります)の大震災とそれにともなう原子力発電所の事故(これも、過去に類似した例がなかったわけではありません)により多くの方が被災され、現に苦しんでいらっしゃいます。
 心よりお見舞い申し上げます。
 これに対して、国内はもとより、米国をはじめとする世界各国からの支援は、本当に心強いものがあります。各府県、各国政府並びに多くの人たちに感謝申し上げたいと思います。
 そういえば、私がそれこそ、ほんとうに小さい頃、日本が敗戦の直後の混乱期にユネスコ(国際連合教育文化機関)の支援やララ物資(米国の日本難民救済会を中心とした団体からの寄付)のお世話になったことを思い出しました。
 『ユネスコ村』が作られたのは、日本が国連に加盟したことを記念し、昭和26年に開園したそうです。遠足に行った記憶があります。
 ユネスコ村は、1990年11月4日に閉園したとのこと。
 ここで、立派なことや教訓的な話はできませんが、やはり、人は、一人では、生きられない、国もまた、同じ事。初心忘るべからず。
 それらのことを、今回の大震災であらためて、強く感じました。
 私もパソコン1~2台分の少額ではありましたが、カード会社及び日本ユニセフ協会を通じて義援金として寄付させていただきました。
 また、NTTなどを通じて、本当にわずかではありますが、ポイントを義援金に回してもらいました。
 『情けは人のためならず』という言葉、このことわざは、本来、こういうときに使うのでしょう。
※ソフトバンク社長の孫さんは、すごいです。百億円の義援金とは、驚きました。確かにビジネスと無縁と言っては、きれい事になってしまうかも知れませんが、志を持つ方とは、こういうものかと痛感させられた次第です。
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元号のこと(2011/5/1 追記)

「元号」(年号)についてです。
 私は、これまで、元号は、いずれ廃止となるとは思われるものの、直ちに使わない方が良いとまでは、考えておりませんでした。
 しかし、今回の震災を機に考え直しました。今後は、使うべきではないと。少なくとも、2011年(平成23年)のように表記すべきであると思います。
 なぜならば、私たち、日本人の「過去を忘れやすい」という「習性」は、元号の使用と分かちがたく結びついていると思うからです。
 前述の「安政江戸地震」にしても、「安政」というのが何年前か、と聞かれて直ちに答えられる人は、少ないでしょう。安政は、1854年~1860年ですので、だいたい、今(2011年)から、(たった)150年程度前のことです。どうでしょう? もっと、昔のことだとは思いませんでしたか?
 江戸時代=昔のこと、というイメージです。その次に、明治、大正、昭和があって、今が、平成ですものね。
 ちなみに、元号の年の数に、明治:1867 大正:1911 昭和:1925 平成:1988を足すと、西暦年になります。
 たとえば、大正12年の関東大震災は、12+1911=1923年のことであり、今(2011年)から、88年前にあたります。
 明治以前は、しばしば、元号を変えていたのは、ご存じのとおりです。それこそ、古代では、「なんか珍しい虹が出た」とか、「大きな火災があった」というだけで、年号を変えたりしていました。なんとなく、気分がリセットされる、とりわけ、為政者にとっては、臣下の貴族や民衆の気分を一新する効果があったものと思われます。
 お正月の挨拶でも、よく「年が改まり」などと使いますね。何か、そこで、区切りを付けて、という気持ちは、分かりますが、一切を水に流して忘れてしまう、という負の面もあるものと思います。
 世界史上のトピックスと日本の歴史をパラレルで見ることが難しい、という、今の私たちの弱点にも通じることでしょう。
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