会員の皆様へ(2008年10月のご挨拶)

寅さんが泣いている

彼岸花

今年も彼岸花が咲きました。赤い花、白い花。
 「春ける(うなづ)彼岸秋陽に狐ばな赤々そまりここはどこのみち」-- 木下利玄
 俵万智さんの「三十一文字のパレット」(中公文庫:1998年)によれば、
 「春く(うなづく)とは、夕陽が山の端に入ろうとするとの意。・・この世とあの世の境に咲いている、曼珠沙華の花。自分の歩いている道が、ふっとあの世へ続いてるような錯覚にとらわれた、その感覚を言ったのが、『ここはどこのみち』であろう」と、利玄の心象を想いやっています。
 西方浄土の主、阿弥陀如来が観音、勢至の二菩薩以下を従え、死者を迎えに来るという、阿弥陀来迎図にも描かれているのが、夕陽が山の端に沈む風景です。
 死者の魂を弔う彼岸。その時期に咲く赤い花から、利玄は、自然に、この道は、浄土へと続いてるのではないかという連想が湧いたのかも知れません。

 お彼岸に咲く、彼岸花は、冬に青々と葉が茂り、葉はいったん夏に枯れたように消えて、秋に花茎だけが出て咲くという、その生態からも、死人花とも呼ばれ、庭に植えるものではないという迷信も生みました。
 確かに、以前、この欄にも書きましたように、アルカロイド系の毒を持っていることもその理由の一つでしょう。
 しかし、一個の植物として見た場合、他にも毒のある園芸植物は、いろいろとありますし、そのような俗信を離れて、花を虚心に見れば、いっそ、派手な、実にきれいな花です。
 ぜひ、皆様も、見かけたら、よく、観てあげてやって下さい。

待ってました! 寅さん

ご存じ、「寅さん」こと、俳優、渥美清さんが1996年に亡くなられて、はや、十三回忌を迎えました。
 今年は、奇しくも、松竹映画、「男はつらいよ」(第1作)が1969年8月に封切りされてから、四十周年にあたるそうです。
 (「寅さんの歩いた日本」(近畿日本ツーリスト)(1997年2月初版)によると第1作の観客動員数は、54万3千人だったそうです。)

 2008年9月25日、この記念すべき第1作のHDリマスター版がテレビ東京から放映されました。
 「寅さん」はじめ、みなさん、実にお若い。
 上掲の本によると、渥美清さん41歳の作品とあります。
 本作は、以前に見たこともあり、ながら見をしていたのですが、いつのまにか、テレビに引き込まれてしまいました。

 寅さんも若かったけれど、日本も若かった。元気だった。
 以降、第48作まで続く、ドラマならではの迫力も感じました。
 マドンナは、御前様の娘役、光本幸子さん。姿も美しかったですが、やや低目の声もよかったです。
 (余談ですが、私は、声の低い女性に魅力を感じます。いや、まったく余談ですね
 さて、博とさくらさんの結婚式のシーン、花婿の父役の故 志村喬さんのとつとつとした挨拶、それに感動した寅さんの率直な演技には、思わず涙を流してしまいました。
 懐かしいという涙もありましたが、それだけではないでしょう。
 私たちがなくしたもの、失ってしまったものの大きさについて、今更ながら、考えさせられたからです。

「お金」という尺度しかないのか

ライブドアの騒動から、もう、だいぶ経っていますが、私たちは、ますます、「お金」という物差しでしか、人や企業を評価できなくなっています。
 そして、子供達と言えば、「点数」という、一つの物差しで測られています。
 日本には、「お金」と「点数」という2種類の尺度しか、存在しなくなっていくのではないかとさえ感じます。
 確かに、お金や点数は、便利な尺度です。
 「○○円」や「△△点」という単一の数字でほとんどすべてのものを評価できてしまいます。

 評価される側または物の個性は、完全に抽象化されます。
 数学や工学で数字を扱うとき、それが何を現すのかを問わずに演算できるのと同様です。
 抽象化の威力は絶大ですが、抽象化は、同時に危険な側面も持っていることも忘れてはいけないでしょう。
 ミサイルや原子爆弾でどの程度の被害が出るのかをコンピュータでシミュレートするのは、可能ですし、実際に爆弾を落とさずに被害の大きさを算定でき、その規模に驚く、という面の効用もあります。

 しかし、数字には、人や物の「心」が抜け落ちています。
 シミュレートする側、それを利用する側の人は、その抜け落ちたものを想像する心構えが要求されるでしょう。
 折しも、輸入の不良米を偽って全国に販売した米の卸商による「毒米騒動」。まんまとだまされていた、農水省の役人。
  いや、思わず、「水戸黄門」の世界を連想したのは、私だけでしょうか。
 「お代官様、お菓子をどうぞ・・」、「お、これは、冷たい、いや、重たい。相模屋。おぬしも悪じゃのう・・ふふふ」。
 いや、失礼、これは、妄想です。

 しかし、またしても、です。
 まったく、懲りない面々です。
 「もうかるから」という一言で、済ませる商人、儲かれば、何をしてもいいのか? 
 孫、子が食べるかも知れないのに、なんにも感じないのか?
 水で洗っていたお餅や賞味期限切れのスイーツよりも、何倍もひどいことです。

 決定。今年の漢字は、ずばり、「毒」でしょう。
 商人道は、もはや地に墜ちたといっても過言ではないでしょう。
 「こころざし」という言葉も死語になったのでしょうか。
 お隣の某国ばかりを非難している場合ではありません。
 まったく、灯台もと暗しです。(あ、これは、こういう場合に使うことわざではなかったか?)

 先日、これも故人となられている、吉兆の創始者、湯木貞一氏の「吉兆味ばなし」(暮らしの手帖社:1982年)を通読しました。
 その文からも、「料理」や「客へのもてなし」に対する「こころざし」を感じました。
 それにつけても、仮にもその名を名乗っていた某店にて、手つかずの鮎の塩焼きを焼き直して別の客に出していたこともあるという話を思いださない訳にはいかず、そうなると湯木氏の嘆きが行間から聞こえてくるようで、なんとも落ち着かない腹立たしい気分がしました。
 湯木氏の作り出した名料亭の名は、受け継がれたのに、何より同氏が大切にしたと思われる、料理に対する心構えは、受け継がれなかったのでしょうか。
 というより、日々の喧噪の中で、いつしか、忘れられていったのでしょう。
 映画、「寅さん」は、世の中には、お金では買えない、もっと大事なものもあるじゃないかと、決して、声高ではありませんが、訴えています。
 寅さんが泣いています。
 今回の放映は、その低い声にあらためて、耳を傾ける機会を作ってくれました。

終わりにあたって

 今回もご覧いただき、ありがとうございました。
 秋の彼岸を過ぎてから急に風が冷たく感じられるようになりました。皆様、お体に気をつけて、お元気でお過ごしください。
 今後とも、ご愛読のほど、よろしく、お願いいたします。

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