会員の皆様へ(2008年9月のご挨拶)

実験は我が師、理論は我が友

目次

 分かるとできるか? できると分かるか?
 スイッチの状態の数
 「内省法」、「説明法」、「独り言法」、「文章説明法」
 「頭から入る」か「体から入る」か
 擬人化、たとえ話
 実験は我が師、理論は我が友
 ムベンバ効果(Mpemba effect)
 重力定数が小さくなっている?
 終わりにあたって

分かるとできるか? できると分かるか?

いきなり、判じもののようで申し訳ありません。
 ふだん、教室で教えている生徒さんにとって、覚えにくい題材があります。
 それを取り上げてみようとしたら、訳の分からないサブタイトルになってしまいました。

 例を挙げましょう。
 日本語入力のMS-IME(マイクロソフト IME 2000~2003)の変換規則です。
 日本語入力は、Windowsパソコンの操作全体で利用する重要項目なので、当教室でも、「キータッチ入門」を設けて、6回コースの中で学んでいただいています。
 このうち、キーの位置をある程度覚えることやローマ字の書き方などは、練習回数を重ねるとたいていの方が自然と上達するものです。
 しかし、日本語変換の規則の一部は、なかなか、数を重ねるだけでは、身につけていただけません。

 変換規則とは、次の2~6です。
 1.入力(ローマ字入力またはかな入力)
 2.変換(変換キーまたはスペースキー)
 3.同音異義語の選択(変換キー又はスペースキー又は上下の矢印「↓」「↑」で選択)
 4.変換対象文節の移動(右向き矢印キー「→」または左向き矢印キー「←」で変換対象文節を移動)
 5.変換対象文節の伸縮(シフトキーを押しながら、右向き矢印キー又は左向き矢印キーで伸縮)
 6.全文確定(エンターキーで確定)
 このうち、2(変換)、3(同音異義語の選択)と6(全文確定)は、すべての生徒さんがすぐに覚えてくれます。
 しかし、4(変換対象文節の移動)と5(変換対象文節の伸縮)は、なかなか、覚えていただけません。

 もう少し、具体的に説明しましょう。(辞書の状態によっては、必ずしも下記のようにはなりません)
 「ましゅまろのようなもじかくしょうじょらに」と入力し、変換すると、「マシュマロのような文字各少女らに」となります。
 現在の変換対象の文節をアンダーライン付きで表現しています。
 MS-IME Standard の標準の見え方とは異なります。
 なお、見え方は、MS-IMEのプロパティからさまざまな文字色、アンダーラインで表現するように変更はできます。

 さて、ここで、「各少女らに」を「書く少女らに」と変えたい場合、どうしても、多くの方が、変換対象文節の現在位置(「マシュマロ」)を考えずに、変換キー(またはスペースキー)を押してしまいます。
 当然、「マシュマロ」が異なる文字「ましゅまろ」に変わるだけで、「各少女ら」を「書く少女らに」に変換することができませんね。
 正しくは、右向き矢印キー「→」を押して、「マシュマロのような文字各少女らに」のように「各少女ら」の部分が変換対象文節になるようにして、そこで初めて、変換キーを押せば、「書く少女らに」が変換候補として現れます。
 これが4番目の移動の規則です。
 標語的には、「右向き、変換、右向き、変換」ということです。

 次に5番目の例です。
 「さきおえしききょうのはなの」と入力、変換すると、「裂きお会式今日の花の」となります。
 「裂き」の部分が変換対象文節なので、そのまま、変換すると、「咲き」に変わります。
 そこで、4番の規則で移動すると、「咲きお会式今日の花の」となりますね。
 ここで、変換しても「お会式」以外は、「おえしき」または「オエシキ」しかありません。
 ここで、5番目の規則で、シフトキーを押しながら、左向き矢印キー「←」で縮め「おえ」となってから、変換すれば、「終え」とすることができます。
 次に4番目の規則で移動すると「き今日の」となりますので、再度、移動し、「今日の」を、えいっと5番目の規則で「ききょうの」に伸ばしてから変換すれば、正しく、「し桔梗の」と変わります。

 この5番目の規則は、4番目の規則(文節の移動)ほど使うものではありません。
 宮本武蔵の二刀流のようなものです。
 武蔵は、常に二刀だったわけではありません。
 いざというとき、えいっと、二刀目が繰り出されたのでしょう。(もっとも、見たわけではないので分かりませんが・・(^o^) )

 ということで、私も、すべての方に5番目の規則(対象文節の伸縮)を覚えてほしいとは申し上げていません。
 しかし、4番目の規則は、複文節変換(複数の文節からなる文章を入力・変換すること)を利用する上では必須の知識かと思いますので、なんとか、理解していただくよう努力していますが、なかなか、すべての方に使いこなしていただくのは難しいものがあります。 
※上記の文例は、俵万智さんの歌集より、
 「マシュマロのような文字書く少女らにハートと星の書き順を聞く」、
 「咲き終えし桔梗の花の茎を折り捨てんとすれば野の香を放つ」の2首の一部を取り上げさせていただきました。
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スイッチの状態の数

人は、2つの状態があるスイッチ(OnとOff)は、すぐに使えるようになるのですが、3つ以上の状態があると、急に覚えにくくなるようです。
 「変換」するか「確定」するかは、On・Offのスイッチの例ですね。これは、簡単なのです。
 ところが、「移動」、「変換」、「確定」と3つの選択肢が現れると、困難さが倍増、いや、3倍増します。
 さらに「移動」、「伸縮」、「変換」、「確定」と4つも選択肢が出てくると困難さが、4倍増、5倍増となってしまいます。
 このうち、「移動」の規則(矢印キーで移動)を説明して、知識として、理解していただくことは、まずは、容易なのですが、「いざ、実践!」となると、まず、たいていの方が、最初に「変換」してしまい、「あれ!あれ!」と、あせって、エンターなどを押して「全文確定」してしまいがちです。

 この場合の生徒さんは、
 「(なんとなく)分かってはいる」が「できない」状態です。
 すなわち、「分かってもできない」のです。
 このような方は、多数の例を練習していただくことで、少なくとも一時的には「できる」ようになります。
 しかし、日にちが空いてしまうと、少なからぬ方が、「できなく」なってしまいます。
 この時間が経つとできなくなる方は、「できるけど(正確には)分かっていない」状態だったのです。
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「内省法」、「説明法」、「独り言法」、「文章説明法」

私を含めて、多くの方が、「できない」→「なんとなく分かる」→「少しできる」→「分かる」→「よりよくできる」→「より明確に分かる」・・というように遷移していくでしょう。
 ただ、「少しできる」と「分かる」との間には、深い谷があるようです。
 ここは、単純な反復練習では、乗り越えにくいのです。うっかりすると、「できない」に戻りがちです。
 どうしても、ここは、「あ!そうか!」と膝を叩く、いわば、一種の「悟り」が必要です。
 この「悟り」に至るには、むやみやたらと練習するだけでなく、自らの頭の中を整理して、「自分に問いかける方法(内省法)」と「他人に説明する中で自らが理解する方法(説明法)」とがあります。

 自習する場合は、1番目の方法、すなわち、「内省法」しかありません。
 しかし、これは、慣れないとかなりの努力を要しますね。
 公案を与えられて、一人で座禅を組んでいる修行僧のようです。

 2番目の方法、「説明法」では、相手が必要です。
 また、相手は、誰でも良いとは言えません。
 説明を受ける人にもそれなりの知識が要求されます。
 説明が不十分な場合や不正確なときは、更に説明を求める知識が必要です。
 その意味で、自分よりも良く分かっている人に説明する環境が必要です。
 禅の例では、座禅を組んで悟りを開いた(公案の解答を得た)と思っても、師に説明をして、その承認を得ないと悟ったことにならないと読んだことがあります。
 一人合点は、「野孤禅」と批判されるようです。
 もっとも、「説明」と言っても言葉だけで説明するとは限らないようです。動作や姿・形で悟ったことを示すという例もあるようです。
 いや、なかなか、難しいものです。

 なるほど、もう一つありますね。3番目の方法は、グループディスカッションです。
 あまり大勢では、ダメですね。だいたい、3,4人から、多くても6、7人程度まででしょう。
 国会の本会議は、退屈で空虚ですが、委員会では、白熱した議論が期待できるのと似ていますね。
 ただし、ディスカッションだと、好き・嫌いという、本題に無関係の感情が入る余地があります。
 そうなってしまうと、せっかくのディスカッションがムダになってしまいます。

 そこで、どなたにもできる簡単な方法は、「独り言法」です。
 自分で(自分に)声を出して、説明するのです。
 声を出すところが大切です。
 声を出さないと、分かった気がしてしまうものです。
 声に出すと、よく分かっていない場合、まず、自分をごまかすことはできません。
 ブログやホームページなどで説明文を書くことは、「内省法」、「独り言法」、「説明法」の要素を少しずつ持っていますね。
 ほとんど、同等の効果があるでしょう。ここでは、「文章説明法」とでも呼びましょうか。
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「頭から入る」か「体から入る」か

勉強に限りませんが、「分からなくても何度も練習させて分からせる方法」と「分からせてから練習をさせる方法」とがあります。
 一言で言えば、「体から入る」か「頭から入るか」です。
 日本の古来からの稽古事では、前者の例が多いように思います。すなわち、「体から入る」方法です。
 これに対して、中学校や高校など、年齢の高い生徒が通う学校では、理解させてから練習する方法、すなわち、「頭から入る」方法で多くを教えていますね。
 この2つの方法のどちらが効率的かは、対象となる内容とそれを受ける生徒さんの年齢や知力、知識といった違いにより、一概に決めることは難しいでしょう。

 経験的には、「自転車」とか「水泳」、「楽器の演奏」など、言葉で説明できないもの、言葉で説明しにくいものは、「体から入る」がよく、数学での方程式など、言葉で説明できるもの、言葉で説明しやすいものは、「頭から入る」が適していると言えそうです。
 また、学習者の年齢により、説明者の言葉を理解するのが困難な場合や抽象的な概念が理解しがたい場合など、「体から入る」を選ぶということもありましょう。

 では、パソコンの勉強は、どちらなのでしょうか。
 言葉で説明できるので、後者の「頭から入る」でしょうか。
 まあ、たいていの内容は、そうだと思いますが、日本語変換規則などは、自然と手が動くようにならないと実用的ではありません。
 結局は、「頭から入る」と「体から入る」方法を反復する必要がありそうだ、というかなり常識的な結論になりそうですね。
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擬人化、たとえ話

何かを理解するときに、理解したい対象を擬人化したりして、何か自分の知っている物にたとえることは、効果的な方法です。
 私は、Excelの関数を、よく、「(昔の商家の)小僧さん」や「下請け企業」にたとえて生徒さんに説明します。
 私的には、「小僧さん」の方が情緒があって、いいのです。
 「下請け企業」では、あまりに現実的過ぎるような気がしますから。

 ただ、若い方には、「小僧さん」といっても「一休さん」みたいなイメージしかない方が多いので、昔の人気テレビ番組「番頭はんと丁稚どん」(1959年~)を知っている私などから見ると、隔靴掻痒と言った感もあります。
 ちなみに、この番組、故 芦屋雁之助さんが番頭はん、大村崑さんが丁稚どん役の一人で大変な人気を博しました。
 (この部分は、「テレビドラマデータベース」( http://www.tvdrama-db.com/ )によります。
 またまた、余談になりますが、このデータベースは、いつも、いざというときに頼れるものです。
 本当にすごい力作です。
 ただ、デザインがいかにも、手作りという感じで、このデータベースの「凄さ」がちょっと見ただけでは、伝わらない点が残念です)

 さて、話を元に戻しますと、Excelの関数には、引数が必要です。
 Today()関数のように引数がいらない関数もありますが、ほとんどの関数は、引数が必要です。
 引数は、たとえれば、小僧さんに渡すメモのようなものです。
 Excel商店は、大店で雇い人が200人ほどいます。
 小僧は、それぞれ、分業なので、だんなが、小僧に何かを言いつけようとするとき、その仕事をできる小僧に言いつけなければなりません。
 その際、ただ、「○○しろ」というだけではなくて、「どこからどこまでを○○しろ」と言いつけなくてはならないわけです。
 その「どこからどこまで」ということを小僧に知らせるメモが「引数」な訳です。

 とまあ、このように説明しているのです。このたとえが、すんなりと分かる方は、前述のように、中高年の方になってしまったようです。
 仕方がないので、若い方には、「下請け企業」というたとえなのでが、「企業」と「小僧」とでは、イメージの具体性に違いがあるような気がします。
 何か、良いたとえがないかな、と思うこの頃です。
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実験は我が師、理論は我が友

科学には、実験や観察、観測がつきものです。そして、理論も必要です。
 これを標語的に「実験は我が師、理論は我が友」と表現してみました。
 実験(観測を含めて)が師であるのは、そちらが、やや重要だからです。
 このことは、理論が低い地位を持つと言っている訳ではありません。
 理論があって、初めて、実験の結果を理解することができるのですから。
 これを、「実験は父であり、理論は母である」と言ってもいいでしょう。
 どちらも重要です。

 なるほど。実験=>体、理論=>頭、という対比ができますね。
 「体から入る」のは、まず、実験してから理論を学ぶ方法。「頭から入る」のは、理論を勉強してから実験で確認するという勉強方法と考えられます。
 実験してから理論を学ぶというのは、学習方法としては、理想の姿ですが、学校では、時間が足りないでしょう。
 それと、実験方法の不手際や条件次第で、明らかに誤った結論を導き出してしまうこともある点です。
 学校の場合は、指導者の資質が問われます。
 「トンデモ科学」に陥る可能性もあります。
 「トンデモ科学」というのは、たとえば、心霊写真や念力といった、科学のお面をかぶった似非科学です。
 「野孤禅」に似ているでしょう。
 一人合点なのです。

 一方、理論を学んでから、代表的な事例について実験をするというのは、多くの場合、効率的です。
 すべての場合を実験するというのは、不可能に近いからです。
 しかし、逆に、実験結果を虚心に判断できないという欠陥があり得ます。
 理論が邪魔をして、正しい姿を見ていながら、見えないのです。
 「心そこにあらざれば見れども見えず聞けども聞こえず」ということです。
 あるいは、実験結果が正しくないのは、実験の手際が間違っているのではないかと考えてしまうわけです。
 重大な発見なのに見逃してしまうことにもつながります。
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ムベンバ効果(Mpemba effect)

NHKの「ためしてガッテン」で2008/7/9に放送された「今年も猛暑!お宅の「氷」激うま大革命」というタイトル中の一部「お湯は水よりも早く凍る」という実験が、大反響を呼んだのでした。
 実は、この番組を私は、見ていなかったので、たまたま、一月後ぐらいにそのことを知りました。
 もっとも、番組の真意は、「条件によっては、お湯は水よりも早く凍ることもある」ということなのですが、物理学者の大槻先生のブログで「実に馬鹿馬鹿者」と評されて、論争に火が点いたようです。
 ムベンバ効果という言葉は、「ウィキペディア」によれば、タンザニアの高校生のムベンバさんが1963年に発見したということから来ているとのことです。偏見ですが、「タンザニア」、「高校生が発見」などと聞くと、「とんでも」、「怪しい」という気がしなくもありませんね。
 確かに金属などの固体であれば、高温の物体の方が低温の物より早く冷えることなどあり得ないですから。

 ただ、ウィキでも指摘されているように、「水という液体が対象」であることにより「水の気化熱」、「容器内の対流速度」などの問題がからんでいること、「凍るということと冷えるということとは必ずしも同じではない」ことなどを考慮すると、個人的には、簡単に「馬鹿馬鹿者」とは、言い切れません。
 まずは、たとえば、気化熱の効果を抑えるための密閉した容器での実験、気化熱を最大限に発揮するための開放的な広口の容器による実験、広い低温実験室での実験、容器の底からの伝導の影響を排除するための容器をつり下げた状態での実験、あるいは、容器内の水の温度分布などを無擾乱的に測定することなど、様々な実験、測定が考えられそうです。

 ムベンバ効果は、欧米では、比較的知られていたようですので、この種の実験は、すでに行われているかも知れません。
 しかし、日本では、氷雪の専門家以外は、知らなかったというのは、面白いですね。
 今では、様々な測定装置が開発されていますので、遠くない時点で、真偽のほどがハッキリするのではないでしょうか。
 それはさておき、以前、日本の学者のほとんどが手を触れなかった「火の玉」研究のパイオニアでもある大槻先生(「火の玉」の謎:二見書房 1986年)には、もう少し、慎重に判断していただきたかった感もあります。
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重力定数が小さくなっている?

これは、日本物理学会誌 2008/7号に掲載された「地球惑星間距離の永年的変化」という解説論文(荒木田英禎・福島登志夫 共著)に書かれている内容の一部を取り上げたものです。
 はじめに、誤解のないように申し上げておきますが、両氏がこのように主張されている訳ではありません。
 そのような可能性もあることを示唆しているだけです。
 記事の内容を大まかに言えば、近年、地球と太陽、月、火星といった惑星や人工衛星・人工惑星との間の距離測定の精度が飛躍的に向上した結果、「天文単位」に時間とともに増加する永年変化らしきものが観測されている、ということです。

 ここでいうところの「天文単位」は、太陽の周りを1年間(365.2568983日)かけて真円軌道で回る仮想的な小物体の軌道半径ををいっています。
 もっと、簡単に言えば、太陽と地球との平均距離と言ってもいいでしょう。
 元々の定義は、こうだったのですが、地球の質量は大きく、他惑星の擾乱を受けています。
 現在の定義では、そのような影響を排除した仮想的な定義となっているわけです。
 しかし、このように定義してしまうとどのように天文単位を測定するか、という問題が生じます。
 実際に太陽の周りにぴったり、この周期で円軌道を描く物体を投入することは、できませんし、まして、他惑星の擾乱を受けないようにすることなどはできません。
 そこで、天文単位は、多数の太陽系惑星や人工衛星・惑星の観測結果から最小自乗法的に求められます。
 元になる理論は、ニュートン力学をアインシュタインの一般相対論を元に一次項まで補正したポストニュートン近似のようです。

 で、もう少し、具体的に言うと、1天文単位≒1.49597870×1011 m です。(平成18年版 理科年表による)。
 そして、天文単位の現在の決定精度は、というと、同誌によれば、大略、0.1mということです。
 そうすると、相対精度は、10-12に達しています。
 そして、肝心の観測・計算された天文単位の永年変化は、100年で+10m程度とのことです。
 この値は、決定精度の100倍ほど大きい値で、誤差として簡単に無視できないものです。
 そして、ロシアとアメリカの複数の研究グループが独立に、多かれ少なかれ、この程度のオーダーの値を報告しているとのことです。

 天文単位が時間とともに増加していることが正しい事実とすれば、それを説明するもっとも簡明な方法は、重力定数が時間とともに小さくなっていると解釈することです。
 もちろん、そう簡単に結論付けられませんが、私が別のところに書きました、ディラックの「大数仮説」などとの関係を考えてみるのも一興です。
 こちらは、「ムベンバ効果」ほどには、実験も理論も容易には、構築できない問題かと思われます。
 科学には、「絶対」という言葉は、似合わない、ということは、肝に銘じておきたいものですが、それとともに、冷静な「友」である、理論からの批判的検討も必要であるのです。まさに、「実験は我が師、理論は我が友」です。
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終わりにあたって

 今回もご覧いただき、ありがとうございました。
 暑さも、峠を越し、朝晩は、ずいぶん、涼しい日があるなど、気温の変動が大きい月です。
 お体に気をつけて、お元気でお過ごしください。
 今後とも、ご愛読のほど、よろしく、お願いいたします。
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