会員の皆様へ(2008年5月のご挨拶)

シミュレーション力の不足を憂う

目次

 1. シミュレーション力の不足を憂う
 2. シミュレーションとは
 3. シミュレーション力とは、想像力である
 4. シミュレーション力の不足
 5. ストップ・ザ「裁判員制度」
 6. 審議会にこそ、市民感覚を
 7. 終わりにあたって

1.牡丹咲く

江南の春
 千里鶯啼いて緑紅に映ず  水村山郭酒旗の風
         南朝四百八十寺  多少の楼台煙雨の中


  杜牧(とぼく)という、唐の詩人の詩です。
 教科書によく載っていましたので、この詩の一節をご記憶の方も多いでしょう。
 この紅に燃える花の中に、牡丹の花もあったのかも知れません。

 上掲の写真にある牡丹は、数十年前に「タキイ種苗(http://www.takii.co.jp/)」から求めたものですが、組み物の内、この株だけが、残っていて、毎年、少ないながらも、花をつけてくれます。
  この花を見る度に、「年々歳歳花相似(はな あいにたり)歳歳年々人不同(ひと おなじからず)」という、劉 希夷「白頭吟」の一節も思い出されます。
 牡丹の花は、一輪でも、存在感があるだけに、桜の花とは違った形で、この世の無常を感じさせてくれます。
 「ああ。また、一年が過ぎてしまったなあ」、そんな、花のつぶやきも聞こえてきそうです。
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2.シミュレーションとは

「シミュレーション(simulation)」とは、広辞苑(第6版)によれば、「物理的・生態的・社会的等のシステムの挙動を、これとほぼ同じ法則に支配される他のシステムまたはコンピューターによって、模擬すること」と解説されています。
 この「他のシステム」とは、もちろん、頭の中や紙の上でも差し支えないのです。
 歴史的には、模擬訓練は、軍事での机上演習と関係が深いでしょう。

 軍事といえば、「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」という言葉で有名な兵法の書である「孫子」が有名です。
 「戦争の勝ち負けには、原因がある」という考え方や「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」という戦争観などから、ナポレオンにも影響を与え、今に至るも影響力は、失われていないとのことです。
 この、勝敗には原因がある(因果)という考え方は、現代では、当然のように受け入れられるでしょうが、古代では、勝敗は、信仰や運、あるいは偶然の結果と信じられていたので、因果という合理的な考えは、非常に画期的なことです。(この部分、主として、ウィキペディアによる)
 先頃のNHKの大河ドラマでは、山本勘助や武田信玄が絵図面を前に作戦を練る姿がしばしば、ありました。
 このように戦国時代では、実戦の前に、机上で模擬的に相互の兵力を配置し、勝敗を考えるということは、必須のことだったでしょう。
 勘助は、孫子を愛読していたという設定になっていました。

 さて、時は、戦国時代からずっと下って、やがて、昭和に移りました。
 昭和16年の太平洋戦争開戦は、上記の孫子の2つの言葉を考え併せると、あまりに安易だったという感があります。
 それでも、真珠湾の奇襲攻撃から初期は、アメリカに匹敵する艦船、空母と優秀なパイロット、航空機の力で、いったんは、優位に立ちましたが、翌年の「ミッドウェイ海戦」において大敗を喫し、この頃より戦況は、大きくアメリカ側に傾いていきました。
 ここでは、戦史について、深入りは、しません。

 ただ、一つだけ触れておきましょう。
 それは、このミッドウェイ海戦に先立ち、攻略部隊の指揮艦である戦艦「大和」艦上で行われた机上演習のことです。
 そもそも、このミッドウェイ島攻略戦は、太平洋上のミッドウェイ島を占領すること、その際、機に応じて、敵機動部隊を殲滅すること、という2つの目的を持った作戦でした。
 このときの机上演習では、不意に現れた敵部隊から発進した航空機により、自軍の空母に大きな損害が出るという結果を、判定役だった参謀長が強引に自軍に有利に裁定したという話が伝わっています。
 ところが、実際の戦場では、N中将が指揮する空母群から発進した索敵機のうち1機が故障したことにより、未索敵だった方角から、不意に現れた敵機動部隊の航空機攻撃により我が国は、主力空母群を失う結果となりました。
 大和艦上の機上演習の結果が、奇しくも、再現されたのです。
 (この節の後半は、「連合艦隊ついに勝つ」(高木彬光 著。角川文庫)、「太平洋海戦記」(ゲームソフト「提督の決断」:コーエー)を参考にしました。)
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3.シミュレーション力とは、想像力である

 さて、「シミュレーション力」とは、何か、ということを考えてみたとき、ずばり、それは、「想像力」だと思います。
 コンピュータなどのハードウェアやOR(オペレーションズリサーチ)・ゲームの理論などの理論やソフトウェアをいくら準備してみても、肝心の想像力が欠けていたのでは、十分ではありません。
 たとえば、「石橋を叩いて渡る」ということわざがあります。用心深いことの、たとえであります。
 辞書では「石橋であるとして、果たして堅固な石橋なのか、叩いて調べる」となっていますが、「石橋のように見えるが、本当に石の橋なのか、叩いて調べる」もあり得ます。
 むしろ、現代では、特に後者が重要であり、すなわち、「石のように見えるが石橋でない可能性」を想像する能力、これが、ここで取り上げたい「想像力」です。
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4.シミュレーション力の不足

前節の意味でのシミュレーション力=想像力の不足を感じる事例は、枚挙にいとまがありません。
 「5000万件の不明年金問題」については、何度も取り上げましたので、ここでは、これ以上、取り上げませんが、その最たるものです。
 文部科学省では、「小中学校の時間数が足りない話と指導要領の再改訂の話」があります。
 土曜休みにすると年間の授業時間が足りないのが分かった。
 (足し算ができましぇん)。また、教える内容を減らしたら、世論の批判を浴び、元に戻そうという話。

 何かとお騒がせな厚生労働省には、「医師不足の話」あり。
 医師が余ると想定して、医科大学の定員を減らしてきたが、高齢化の進行とインターン制度の改変により、医師の偏在化が急進行、さらには、偏在していると言われる都市部でも患者一人あたりの医師の絶対数が足りないという話。(今度は、割り算ができましぇん)

 また、「派遣業法の改正により派遣社員の増大の話」もあり。
 派遣社員ばかりが増えてしまい、なんと、労働者の3分の1になったとか、ならないとか。
 これなど、シミュレーション力不足と言われても抗弁できますまい。
 インドからはるばる技術者を呼びながら、日本の若者は、単純なアルバイトしか見つからないというこの矛盾。
 職業に貴賎無しといえども技術力の低下を如何にせん。
 いやはや、優秀な人材を集めている中央官庁でもこの程度ですから、「優秀な人が集まると、かえって普通の人以下になる」という典型です。

 民間でも、いちいち、挙げられないくらい、同様の事例がありました。
 東の国には、「耐震強度がないのをごまかしていた建築士さんの話」、「きちんと審査せずにはんこを押していた検査会社の話」がありました。
 一方、北の国では、「古い牛乳を混ぜていた牛乳屋さんの話」や「牛肉以外を牛肉と称して売っていた肉屋さんの話」があり、南にも「賞味期限のラベルを貼り替えていたお菓子屋さんの話」がありました。
 そして、中の国には「ブラックユーモア大賞」を差し上げたい、「夜な夜な、餅とあんを洗っていたお餅屋さんの話」がありました。
 一首、できましたな。
 「神も知れ闇夜に洗う五十鈴河ながれに沈む餅と餡とを」。
 「神も知れ月すむ夜半の五十鈴河ながれて清き底の心を(覚助法親王)」のもじりですが。

 さて、何でも洗って食べる、アライグマの「ラスカル君」(古いな!)にインタビューを試みると、「いや、何でも洗う僕も、餅は洗わないよ。手にくっついちゃうよ」と常識的な答えが返ってきました。
 では、妖怪「小豆洗い婆」さんは、いかがでしょうか。
 「わしゃ、小豆なら洗うがの。あんこを洗うことはねぇでありますよ」と北林谷栄さん()風のアクセントで、これまた、あっさり、却下されました。
 いや、まったく、新「日本むかしばなし」ができそうですな。
 そして、「3人並んでお辞儀する」結果となりました。
 ・・・「不祥事が発生したとき、記者会見で、トップが3人並んでお辞儀をするという新しい習慣を表す言葉。平成の時代に始まる」(うそ語辞典より)。
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5.ストップ・ザ「裁判員制度」

そして、「裁判員制度」です。最近のニュースによれば、同制度は、2009年度から実施されるとのことですが、これなど、早々に新「日本むかしばなし」に仲間入りではないでしょうか。
 「裁判官、検事、弁護士は、市民感覚が不足している(!?)ので、市民が(しかも重大事件の裁判に)参加して、裁判をより良くしましょう」と考えているとすると、それは、間違っているのではないか。
 裁判に携わる人たちに(本当に!?)市民感覚が足りないならば、研修等で補っていきましょう、というのならば、分かりますが、「裁判に市民が参加」、というのは、たとえて言えば、医療現場では、医師の独断的な行動が目立つ(?)ので、「市民が診察や治療に参加」するに等しい愚挙かと思われます。

 これについては、マスコミも何となく、市民参加=民主的、という図式にだまされているのではないか。
 これは、理念のみが先行して、実態を考えない(見ようとしない)法務省の独断ではないでしょうか。
 すなわち、シミュレーション不足、想像力不足です。
 いかに「模擬裁判」を重ね、法廷の席を新調してみたところで、あるいは、「裁判員参上」を「裁判員誕生」などと看板を掛け替えてみたところで、国民の理解は、得られますまい。

 このようなことがまかり通ると、何にでも、直接、市民が参加することが民主的なんだ、という、理念は正しいかも知れないが、とうていその実現方法が間違っているとしか思えない考え方が蔓延します。
 それは、かつて、党委員会が何事にも口を挟んだ国々の二の舞でしょう。
 現代社会は、基本的には、分業社会です。直接民主主義ではなく、間接民主主義が基本でしょう。
 ストップ・ザ「裁判員制度」!
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6.審議会にこそ、市民感覚を

前節のように国民の一般常識とはかけ離れた(と思われる)制度が、いとも簡単にできてしまう現行システムの方こそ市民感覚を導入すべきでしょう。
 国会議員だけでは、十分にチェックできません。
 法律・制度は、官庁の担当課により、原案ができて、所定の審議会に諮ってしかるべく審議を行い、法制局の審査を経て、議会で議決されます。
 一見、十分にチェック機能が働いていそうですが、この審議会がくせ者ですな。
 たいていの委員は、忙しい方達ばかりですし、分厚い資料を読んでいる暇がないでしょう。
 勢い、委員長と事務局である担当課とが、こつこつと、仕事をしているのです。
 これ以上、書くと語弊がありそうですが、御用審議会(一名「シャンシャン審議会」)と化している審議会が少なからず、ありそうです。

 裁判に市民を参加させる余裕があるのであれば、このような審議会に市民を参加させるか、あるいは、もう少し、実際的な案としては、「委員」を広く、公募すべきでしょう。
 委員長や事務局の意に沿わないかも知れない委員も入らないといけないのではないでしょうか。
 「審議会は、その道の権威者が参加するもので、一般市民は、専門知識がないので、お断り」であれば、専門知識が無くても参加できる「裁判」って何なんでしょう。
 そして、そんな「裁判」に携わっている裁判官、検事、弁護士の先生方っていったい?、という世にも不思議なこの奇妙さを誰か説明して下さい。
 いや、ひょっとして、私の方なのか、想像力が足りないのは・・・・・。
 さあ、わかりましぇん。
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7.終わりにあたって

 今回もご覧いただき、ありがとうございました。
 風薫る五月となりました。今後とも、ご愛読のほど、お願いいたします。
 ※北林谷栄さん:2010/4/27にご逝去されました。従いまして、本稿執筆の2008/5の時点では、お元気であったわけで、誠に確認不足でありました。
  ここにご関係のみなさまに謹んでお詫び申し上げるとともに、本項を読まれた方に誤解を与えたことを併せて、お詫び申し上げます。
(2010/5/10追記)
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