2001年12月のご挨拶

更新日:2001/12/1

 物の名前とファイル名

物の名前とファイル名

 には、名前があります。これは、当たり前のようなことですが、今回は、これについて考えてみましょう。
 ヘレンケラーは、物には、名前があるのだと初めて知った際の喜びを語りました。
 「Water!」が彼女が最初に口にした言葉でした。名前と言葉は、分かちがたく結びついています。

  名前には、総称と固有名称があります。総称とは、その物が属するカテゴリーにつけられた名称のことです。
 カテゴリーは、一般的には、階層的に形作られます。
 例えば、アルコール飲料の中には、ビールが属していて、ビールというカテゴリーの中には、○○ビールというカテゴリーがあり、その中に・・というふうに。同一のカテゴリーに属するとは、そのカテゴリーの分類基準に照らして同一と見なせることをいいます。
 ○○ビールの中の△ビールというものは、その名称の中では、互いに区別できない、グループを形作っています。

 しかし、分類基準を変えて眺めれば、△ビールの中の個別のビールは、全く同一ではありません。
 例えば、製造番号により、区別できます。製造番号とは、同一のロットに属する製品群につけられる番号のことです。
 ロットとは、ビールの製造日や製造過程が同一で、品質が同一であろうと見なせる単位を言います。
  では、同一ロットに属するビールは、全く区別できないかというと、そんなことは、ありません。
 原理的には、それぞれのビールには、別の名前を付けることができます。
  ここでは、名前を付けることができることと、それを見分ける基準を作ることとは、別に考えています。
 固有名称とは、現在、考えているレベルでの最小単位に付けられる(付けることが可能な)名前のことです。

  レベルについて、説明します。
 ビールは、例えば、缶ビールに限定しても、その内部に構造を持っています。
 具体的には、缶自体やビールの液体(の分子等)は、現在、考えているレベルより小さい単位です。
 しかし、缶ビールを我々消費者が取り扱う上で、便利な単位は、1本の缶ビールだということです。
 また、業者にとっては、1箱という単位かも知れません。
 このように、私たちが「缶ビール」と言う際の缶ビールは、考えているレベル以下の構造を無視しています。
 この意味で、物の名前は、抽象的な概念です。
  そして、それは、言葉そのものが抽象的な概念であることと無縁ではないでしょう。
 物に名前を付けて区別できることを知ったときに人類は、最初の言葉を得たのかも知れません。

  幼い子供達が教育で最初にぶつかるのが、この抽象化という操作です。
 幼い子にとっては、「このミカン」は、「あのミカン」とは、別の物です。
 成長してそれら全体を「ミカン」と呼べるようになることは、学習の結果です。

  この抽象化という操作を突き詰めれば、例えば、1個の鳥の「クジャク」は、「孔雀明王」にまで出世します。
 司馬遼太郎氏の「空海の風景」(中央公論社刊)には、この間のことを次のように記しています。
 少し長いですが、引用してみましょう。
  「(紀元前1600年頃、インドを征服したアーリア人種が)文明のインド的特質を作り上げた。彼らの思考法はあらゆる現象を偏執的なまでに抽象化してしまわなければ我慢できないというところに特徴があった。
  たとえば、「孔雀は平気で毒虫を食う」という言語表現は、インド・アーリア人の言語であるサンスクリットにはないらしい。かれらは「孔雀は解毒性によって毒虫を食う」と表現したといわれる。
  抽象化は現象を普遍的世界に持ち上げてゆく作業だが、アーリア人には、この作業癖があるために、土俗の「孔雀咒」を取り上げる場合、孔雀からまず解毒性を抽出する。さらには毒とは何んぞやということを考えたかと思われる。
 (中略)
  精神の毒も毒である以上、抽象化された鳥である孔雀の抽象化された解毒機能に掛ければすぐさま消滅させられてしまうはずであった。となれば、孔雀は、単なる鳥ではなくなり、その解毒の機能のみが、すでに仏性という形而上的世界に昇華させられた以上、諸仏諸菩薩の仲間まで高められてしまうのである。
 このあたりが、インド・アーリア人の思考の玄妙不思議なところであろう。
 要するにこのような思考の作業がおこなわれたあげく、「孔雀明王」が成立するのである。


 コンピュータの世界では、ファイルに付ける名前が1つの固有名称に当たるでしょう。
 通常、私たちが、アプリケーションから「名前を付けて保存」を選択して、付ける名前がファイル名です。
  ここでも上述のレベルのことを考えましょう。
 例えば、アクセスのファイルは、1つのmdbファイルです。
 しかし、この中に多くのテーブルやクエリー等が定義されています。
 1つのテーブルの中には、多くのレコードがあり、というふうに分解することができます。
  今、考えているレベルは、そのような構造を無視しています。
 コンピュータ(あるいはOS)は、ファイルが、どのようなアプリケーションで作られた、どのような内容の物であっても、内部では、同一の単位として扱います。

  ファイル名のことをもう少し考えましょう。
 ファイルは、コンピュータの側では、フルパス名という、ファイルの保存場所と結びつけられた名前で、扱われます。
 フルパス名とは、一般に、「ドライブ番号:¥フォルダ名¥・・¥ファイル名」という書式になります。
 すなわち、コンピュータ側からいえば、全く同一の内容のファイルであっても保存されている場所が異なれば、別の物として扱うことになります。
  逆に異なった内容のファイルであっても同一の場所に同一のファイル名で保存しようとすれば、従来からそこに保存されているファイルは、後から保存した物に上書きされてしまいます。
 これが、「上書保存」です。
 コンピュータの世界では、同一の場所には、同一のファイル名のファイルは、2つ以上存在できないという、一般的な制約によるものです。

  この点は、パソコン初心者が最も注意しなければ、ならないことです。
 例えば、「平成12年度報告書」を「平成13年度報告書」に書き替えて利用する場合は、まず、「平成12年度報告書」を開いたならば、直ちに「平成13年度報告書」として、「名前を付けて保存」してしまうことです。
 こうすれば、不用意に「上書保存」しても「平成12年度報告書」が上書きされて失うようなことには、ならないでしょう。
  このようにコンピュータの世界では、フルパス名が固有名称といってもよいでしょう。
 同一のコンピュータの中では、同一のフルパス名を持つファイルは、1つしか存在しないのですから。

  では、ネットワークにつながっているコンピュータの場合は、どうでしょうか。
 この場合は、フルパス名をすこし拡張して「¥¥共有名¥フォルダ名¥・・¥ファイル名」のような「UNC名」が使用されます。
 ここで共有名がネットワーク上に公開されているフォルダの名称です。これは、そのコンピュータ内での名称と同一である必要はありません。
  なお、Windows95/98等では、長い共有名が使われると認識できない場合があります。半角8文字以内であれば、大丈夫です。
 WINDOWS/NTやWINDOWS2000では、問題はありません。

  共有名には、別の命名規則もあります。インターネットの世界では、URLが使用されています。
 これは、「www.aaa.co.jp」のような書き方です。wwwは、ドメイン「aaa.co.jp」内のコンピュータに付けられた名前です。
 インターネットに公開されるコンピュータには、wwwが慣用的に使用されている例が多いようです。
 ただ、これは、習慣的なものですので、wwwでない場合も多くあります。
  そして、URLでは、www.aaa.co.jp内のファイルを「/フォルダ名/・・/ファイル名」で表します。
 これでそのファイルを一意に指定することができます。

  要するに固有名称とは、物を便宜上、あるレベルにおいて一意に区別するために使用されるものであり、その前提として内部構造を無視しています。
 特定の場所にいる「田中太郎」は、固有名称です。
 しかし、それは、昨日の「田中太郎」と同一でしょうか?
  年齢やあるいはその際の田中太郎氏の気分などを考慮すれば、違うでしょう。
 しかし、それらを無視して彼を「田中太郎」と呼んでいるのです。「田中太郎」は、この意味で抽象的な概念です。

  さて、物を一意に区別できるということは、決して自明なことではありません。
 極微の世界、例えば、同一の素粒子は、互いに区別できないことが分かっています。
 区別できないということは、区別する方法がない、ということです。
  もちろん、ある瞬間にニューヨークにある水素原子と東京にある水素原子は、区別できます。
 区別するためには、その位置を測定します。不確定性原理を思い出してください。
 不確定性原理では、物の位置と運動量を同時に正確に測定する方法がない、というものでした。
 不確定性原理の制約があってもニューヨークと東京ほど距離が有れば、その運動量(速度)がどれほど異なっても、その位置の測定誤差は、互いの距離に比して無視できる程度のものになるでしょう。
  しかし、それらの距離が近くなると、お互いに区別することができなくなります。
 区別するということは、その位置を測定できるということと同義です。

  今、2人の人間が仮にクローン人間だとして、全く個体差がなかったとしても、彼らを24時間、追跡・監視することにより、2人を区別し続けることは、原理的に可能です。
  このことは、素粒子の世界では、成立しません。監視、追跡することが原理的にできないのです。
 追跡、監視するためには、素粒子を見なければならず、見るためには、光(子)を当てて、その反射をとらえることが必要です。
 しかし、光子を当てることは、素粒子の運動を乱し、正確な追跡を不可能にします。
  このように固有名称とは、その物を追跡、監視できる前提で考えられる概念であることが分かりました。
 追跡、監視ができない物に対しては、固有名称が付けられないのです。
 しかし、このことは、その物に内部構造がないということには、ならないことに注意してください。

  少し、難しくなってしまいました。
  では、今月は、ここまで。
 皆様、お元気でお過ごし下さい。また、来月、お会いしましょう。


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