2001年11月のご挨拶

更新日:2001/11/1

 ボーアとハイゼンベルクの対話劇

ボーアとハイゼンベルクとの対話劇

  近の朝日新聞の記事にふと、目がとまった。
 「2001年10月29日に東京・初台の新国立劇場小劇場で開幕する「コペンハーゲン」(マイケル・フレイン作、平川大作訳、鵜山仁演出)に江守徹が闘志を燃やしている」とある。
 江守は、「いままでに読んだ戯曲の中で最高かも知れない」と語っている。
 この劇は、昨年のトニー賞で最優秀演劇賞を受賞した作品である。
  一体、どんな内容なのか?
 日頃、演劇にあまり興味がない私も、この言葉に刺激されて、それほど長くもない記事を通読してみた。
 それによると、デンマークが生んだ世界的な物理学者「ニールス・ボーア」とドイツのこれも著名な物理学者「ヴェルナー・ハイゼンベルク」との対話を劇に仕立てたものとある。

  ニールス・ボーアは、1885年10月7日にデンマークの富裕な学者一家の長男として生まれた。
 次男「ハラル・ボーア」も後年、数学者として著名な人になった。幼い頃から周りの人たちはハラルの方が賢いと見ていた。
  しかし、父親の生理学者であったクリスチャン・ボーアは、「(愛情を込めて)ハラルは、銀だ。
 しかし、ニールスは、金だ。」と語っていたという。

 一般には、ハラル・ボーアは、デンマークのオリンピック選手としてよく知られていた。
  ニールス・ボーア(1962年没)については、「ニールス・ボーア」(S・ローゼンタール、豊田利幸訳。岩波書店刊 1970年)が詳しい。
 この本は、私の大学時代の愛読書といってもよい。
 何度も繰り返し読んだものだ。
 湯川は、この本の序文で、ボーアのことをこう、評している。
 「ボーアは、20世紀初期の天才達の誰よりも、思考の制御・凝集・持続において優っていた。
 一見、彼と対照的で孤独を愛したニュートンと、この点は、似ている。
 そういう側面から見ると、彼は西欧の学問の伝統に、最も忠実であったともいえよう。
 ところが彼が自らの思考の指導原理と認めるようになった「相補性」なるものは、デカルトによって代表される西欧的思考の明晰さとは裏腹になっている。
むしろ、そこにアインシュタインとは、やや違った形での東洋的な知恵の体現者の姿が見られるのである。」

  ボーアは、1922年にノーベル物理学賞を受賞した。
 ボーア存命中のデンマークのコペンハーゲンは、物理学を学ぶものにとってあこがれの場所となっていた。
 我が国では、仁科芳雄がボーアについて学んで、「クライン・仁科の輻射公式」を得ている。
 彼ら、ここで学んだ者は、しばしば、コペンハーゲン学派と呼ばれた。
 当時、シュレンディンガーやアインシュタインと量子力学の物理的解釈を巡って、論争を行った。
 量子力学の基礎に関する彼らの解釈は、コペンハーゲン解釈ともいわれる。

  これは、例えば、原子内の電子の位置と速度(正確には運動量)は、同時に正確には、知ることが原理的にできない、というハイゼンベルクが見いだした「不確定性原理」に代表されるものである。
 通常の物理学においても、また、その他の技術的な学問においても、何らかの測定には、誤差が必ず生じる。これは、当然のことである。
  しかし、不確定性原理は、このことが原理的に、不可能であることを示した。
  だが、ボーアが様々な面で尊敬していた、アインシュタインは、この解釈が確率的な曖昧さを持つことをひどく、きらった。
 「神は、サイコロを振り賜わず」というのが、彼の口癖であった。

  アインシュタインは、数の多い粒子の集団、例えば、気体などで統計的な扱いをすることは、十分に理解していたし、彼自身、このことに大きな寄与をしている。
  しかし、量子力学において、正確な測定ができないのは、現象に対する我々自身の知識が不十分なためであるとして、不確定性原理を受け入れようとはしなかった。
  彼は、天才的な思考実験を考え出しては、不確定性原理が成り立たないような例を見つけようとした。
 だが、ボーアとハイゼンベルクらは、そのような思考実験についても、不確定性原理は、成立しており、量子力学の基礎が揺るがないことを示した。
 アインシュタインは、その都度、自らの考察の誤りを認めるものの、心底からは、受け入れようとはしないようであった。
  このことは、ボーアを悲しませたが、アインシュタインのような学識優れた学者からも自らの解釈を防衛できたことを喜びもした。

  さて、芝居で、対話の相手を勤めることになる、ハイゼンベルク(1901年~1976年)の一般向けの著作としては、「部分と全体」(みすず書房、山崎和夫訳、湯川秀樹序:1974年)がある。
 この本を私は、1975年に読んだ。本には「私の生涯の偉大な出会いと対話」という副題がついている。
  ハイゼンベルクは、20世紀初頭に起きた物理学の疾風怒濤の時代を生き抜いた学者である。
 ふたたび、湯川の言葉を借りれば、「ハイゼンベルクは、彼と同年代の天才達、例えば、パウリ、ディラックらと比較しても、息の長さにおいても、また、新しい局面を迎えて、その都度、当面する根本問題を解決しようとする気概においても、群を抜いている」。
 ハイゼンベルクは、1932年にノーベル物理学賞を受賞した。

  「部分と全体」は、ハイゼンベルクの自叙伝とも言えるが、特徴的なことは、多くの、主として物理学者との対話により、著者の姿を浮かび上がらせている点である。
  対話は、ほとんどが筆記を元にしたものではく、著者の記憶と独自の視点より再構成されている。
 この対話の中でも最も重要で、かつ、量が多いものが前述のニールス・ボーアとの対話である。
  ハイゼンベルクは、これらの対話の中でボーアをソクラテスに、自らをプラトンに擬しているようにさえ伺える。

  ここで、20世紀の初頭の物理学の世界をちょっとおさらいをしておこう。
 19世紀の末までに、物質の運動については、ニュートンの運動方程式が、電磁気の分野では、マックスウェルの電磁場方程式が理論的にも、実験・観測的にも確立され、相互に結びついて、確固とした体系を作っていた。
 これらにより電子が加速度運動をする際の電磁波の放出についても、実験と合致する結果が得られていた。

  しかし、まず、アインシュタインによる、時間と空間に関する新理論(特殊相対性理論)が現れた。1905年のことであった。
  これにより、時間と空間は、従来、考えられていたような互いに独立した存在ではないことが明らかになった。
  また、ニュートン力学は、物質の速度が光速に比して、無視できる程度の速さ(遅さ)である場合に成立する(近似)理論であることも分かった。
  このように、まず、力学が足下を揺るがされた。

  では、電磁気学の方は、無傷なのか?
 この面でもプランクによるエネルギー量子仮説(1900年。エネルギーは、最小単位を持つ)やアインシュタインによる光量子仮説(1905年。光は、光量子というエネルギーの固まりとして解釈できる)などが提唱され、実験的にも認知されつつあった。
  しかし、これらは、従来の電磁気学の常識では、とうてい理解できるものではなかった。

  また、原子についても、物理学者は、頭を悩ませていた。
 それは、原子の安定性という謎であった。
 すでにイギリスのラザフォードにより原子は、中心にある原子核とその周りにある軽い電子とで成り立つ構造を持つことが明らかになっていた(1911年)。
  プラスの電荷を帯びた原子核とマイナスの電荷を持つ電子とは、互いに引き合うため、もし、電子が止まっていれば、電子は、直ちに原子核と結合して原子は、消滅してしまう。
  しかし、最も簡単な原子である、水素原子でさえ、十分に安定している。
  では、電子が原子核の周りを、ちょうど、太陽と惑星との関係のように回転していれば、安定するのではないか。
 日本の長岡半太郎の土星型原子模型の理論(1903年)などにより、力学的には、ある程度の数の電子が原子核の周りを回転している場合、安定な配置が存在することが分かっていた。
  だが、一方では、電子が回転運動するということは、前述の加速度運動の一つのケースであり、電子は、電磁波を放出して極めて短時間の寿命しかないことも同時に証明された。

  この矛盾をどのように理解したらよいのか。
 このような時にニールス・ボーアは、原子に関する新理論を唱えた(1913年)のである。
 ボーア模型と呼ばれた、この新理論は、原子による光の吸収と放出が電子がその「軌道」を変えた場合に変化するエネルギーの大きさとプランクの量子仮説とを結びつけたものであった。
 理論は、電子の「軌道」という、当時の物理学の言葉で正確に言い表せない部分を含んでおり、スペクトル実験とは、一致するものの一体、理論のどこまでが正しく、また、どこが不完全かという点が明らかにはなっていなかった。
 そうするうちに、ボーアは、1922年に原子の周期律を正しく説明する理論を発表した。
 ボーアの理論は、こうして、皆に受け入れられたが、依然して、原子や電子に関する理論は、完成されたものではなかった。
 この当時の理論は、現在では、「前期量子論」と呼ばれている。

  1922年初夏、ドイツのゲッチンゲンで、若きハイゼンベルクと年長のボーアとの対話は、原子に関するボーアの理論を巡って展開された。
 そして、それは、それから長く続くことになる二人の対話の始まりであった。
 ボーアとハイゼンベルクは、最初は、師弟とも呼べる関係にあり、その後、共同研究者となっていくのである。
  と、まあ、ここまで書いてみたが、難しくて、とても演劇には、なじまないような気がする。

 もちろん、二人の対話は、物理学だけには、止まらない。
 劇では、「第2次大戦中の1941年に、ナチス占領下のデンマークで2人のノーベル賞受賞物理学者、ニールス・ボーアとハイゼンベルクが交わしたなぞの会話が題材だ。
 原爆開発をめぐる史実を背景に、人間や宇宙、国家や戦争への考察が展開する」そうである。
  「部分と全体」の中でも、このような哲学的な話題や原爆開発に関する対話が二人の間で多く交わされたことが記載されている。

  さあ、劇では、これらの難しい問題をどのように取り扱うのであろうか?
 江守でなくても、興味があるところである。
 舞台には、観客への通訳役を兼ねてボーアの妻のマルガレーテが登場する。登場人物は、これら3人のみ。
 「マルガレーテは新井純、ハイゼンベルクは今井朋彦。11月18日まで。5250円、3150円。問い合わせは電話03・5352・9999(新国立劇場ボックスオフィス)」ということであるので、以上のことで、ご興味がわいた方は、どうぞご覧下さい。

 では、今月は、ここまで。
 皆様、お元気でお過ごし下さい。また、来月、お会いしましょう。

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